川を買って路面電車通りに 駅と甲子園球場、甲子園線を生んだ阪神電鉄の「大きな賭け」
川はいかにして「路面電車通り」と「球場」に変わった?
変化が訪れたのは大正時代中期です。兵庫県が、枝川を廃川(川を廃止する)し払い下げる方針を打ち出したのです。背景には予算に窮していた県の懐事情がありました。しかし「川を売却する」とはいうものの、数kmに及ぶ細長い土地の買い手などなく、県の新たな悩みの種となっていました。そこに手を挙げたのが阪神電鉄だったのです。
この地の宅地化を目論んだ阪神電鉄は、河川工事の費用をプラスしたうえで実に410万円を支払いました。その金額は明治から大正にかけて進められ「世紀の大工事」といわれた大阪電気軌道(現・近鉄)の生駒トンネルの総工費269万円を大きく上回り、現在の価値に換算すると20億近い巨大投資でした。同時期の1920(大正9)年、北側に阪急神戸本線が開業し沿線開発の競争相手が増えた阪神は、新しい乗客を獲得するための大きな賭けに出たのです。
1923(大正12)年に武庫川と枝川のあいだは締め切られ、枝川・申川の流れが消えました。干上がった枝川の流路には土木工事用のレールと道路が整備され、周囲には住宅地が次々と造成されていきます。申川と枝川に挟まれた三角州には「甲子園大運動場」(現在の阪神甲子園球場)と阪神本線の甲子園駅が造られました。5万人収容の球場と、駅・電車は、1924(大正13)年8月1日の完成を待って開催された全国中等学校優勝野球大会(現在の全国高等学校野球選手権大会)により、満員の人々でにぎわう日も出てきます。そして1926(大正15)年、路上のレールは「甲子園線」として旅客を運ぶようになりました。本線の甲子園駅も、この年から通年営業になります。
世間では、「狐か狸の巣みたいなところをえらい金で買うて、阪神はどないするつもりや」(『阪神電気鉄道百年史』原文ママ)とまでいわれた土地でしたが、「阪神本線の梅田・三宮方面のいずれかの電車運賃1年間無料」という大盤振る舞いにより、宅地は驚異の速度で売れていきます。のどかな川は道路と線路に変わり、地域はわずか10年ほどのあいだに、「2本の電車が交差する街」として変化を遂げました。
兵庫県は長年の懸案であった武庫川本流の堤防工事や道路工事を一気に進め、新しい道路(国道2号)にも、後に阪神の路面電車が通ることになったのです。
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