川を買って路面電車通りに 駅と甲子園球場、甲子園線を生んだ阪神電鉄の「大きな賭け」

無念の廃線 いまも痕跡がある「甲子園の路面電車」

 戦後も、阪神本線と甲子園球場は相変わらずのにぎわいを見せていましたが、そのなかで甲子園線の廃止が打ち出されます。甲子園線の車両基地は、路面電車としての本線である国道線の側(浜田車庫)にあり、この国道線が廃止されると車両の置き場所を失うため一括で路面電車を廃止する、というものでした。

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武庫川の堤防沿いにある「枝川樋門」。ここが締め切られたことで枝川は廃川となった(2019年7月、宮武和多哉撮影)。

 戦後早々に業績が悪化していた国道線とは対照的に営業成績が良く、日中でも1時間あたり5本は運転されていた甲子園線の廃止は地元の猛烈な反対を呼び、一旦は廃止が先延ばしになります。しかし最終的に1975(昭和50)年、阪神の路面電車線の全線廃止により甲子園線は姿を消すことになりました。

 甲子園球場の周辺には、いまも路面電車や川の跡が残っています。国道43号の高架橋の下には電車用の架線を吊るしていた跡があり、道路脇には架線柱の根元だけが残っています。また、川や甲子園線を跨ぎ越えていた阪神本線の鉄橋はいまでも甲子園駅のホーム下にあり、「枝川橋梁」の名前が付いています。また特徴的な形から「金魚鉢」と呼ばれていた当時の電車は、尼崎市内の公園や滋賀県などで保存されています。

 国道2号と甲子園筋の分岐点にはかつて変電所と指令所があり、車両を監視しながら電車の折り返しが行われていましたが、現在その跡にあるのはファミリーレストランです。そこから1kmほど北側の武庫川沿いには、武庫川から枝川への流れを止めた「枝川樋門」が残っていますが、もちろん水は流れていません。

 甲子園線の周辺はいまでも松の木が多く、なかには住宅街の道路上に唐突に生えているものもあります。これもかつては広かった河川敷の名残で、近年までは甲子園駅の前にも松並木がありましたが、樹木自体の寿命により姿を消しています。なお、俳優の森繁久彌さんは廃川当時、枝川沿い(現在の阪神甲子園バス停東側)に住んでおり、後に「ある日突然、川の水が止まった」と、『鳴尾村史』に7歳のころの記憶を綴っています。

 川から水が消えて100年近く、甲子園線の廃止からすでに50年近く経ち、その痕跡は徐々に姿を消しています。変わっていく甲子園の街で昔の面影を保ち続けているのは、甲子園球場完成から間もなく植えられ、いまも伸び続けるツタくらいかもしれません。

【了】

【写真】阪神甲子園線の跡をたどる

Writer: 宮武和多哉(旅行・乗り物ライター)

香川県出身。鉄道・バス・駅弁など観察対象は多岐にわたり、レンタサイクルなどの二次交通や徒歩で街をまわって交通事情を探る。路線バスで日本縦断経験あり、通算1600系統に乗車、駅弁は2000食強を実食。ご当地料理を家庭に取り入れる「再現料理人」としてテレビ番組で国民的アイドルに料理を提供したことも。著書「全国“オンリーワン”路線バスの旅」など。

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