都電 荒川線だけなぜ残ったか 道路を走らぬ「専用軌道」の多さ鍵 元は王子電気軌道
現代を生きる私たちにとって、都電イコール荒川線なので、荒川線こそが都電を代表する路線と考えがちですが、実際には荒川線は都電らしくない路線だったからこそ、廃止を免れたということになります。
なぜ荒川線が都電らしからぬ路線かというと、その前身が東京の郊外を走る「王子電気軌道」という私鉄だったからです。王子電気軌道は1911(明治44)年8月、大塚駅前~飛鳥山上(現・飛鳥山停留場付近)間で開業し、1913(大正2)年に三ノ輪橋まで、1932(昭和7)年までに早稲田まで延伸。現在の路線が形作られました。
大正期は東京北部近郊の通勤路線として一定の存在感を発揮していましたが、昭和に入ると住宅開発の中心が東京南西部に移り、停滞の時代を迎えます。1927(昭和2)年には現在の地下鉄南北線と同じルートで王子~赤羽間を延伸しますが、並行する国鉄が1928(昭和3)年に赤羽まで電車運転を開始したため利用は伸び悩みました(王子~赤羽間は1972年11月に廃止)。
経営が行き詰まった王子電気軌道は、1942(昭和17)年に東京市電に統合され、歴史のなかに消えていきます。しかし、王子電気軌道という基礎があったからこそ、荒川線は唯一の都電として生き残ることができたのです。
荒川線が存続した理由のひとつには、東京に路面電車があったという歴史をひとつだけでも残しておきたいという想いもありました。私鉄と都電、ふたつの記憶を背負った荒川線は、2021年に開業110周年を迎えます。これからも地域に欠かせない足として活躍が続くことでしょう。
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Writer: 枝久保達也(鉄道ライター・都市交通史研究家)
1982年、埼玉県生まれ。東京地下鉄(東京メトロ)で広報、マーケティング・リサーチ業務などを担当し、2017年に退職。鉄道ジャーナリストとして執筆活動とメディア対応を行う傍ら、都市交通史研究家として首都圏を中心とした鉄道史を研究する。著書『戦時下の地下鉄 新橋駅幻のホームと帝都高速度交通営団』(2021年 青弓社)で第47回交通図書賞歴史部門受賞。Twitter:@semakixxx
墨田区はともかく、江東区のほとんどが併用軌道と言うのは当たらない。確かに系統別にみると錦糸町駅の南側、京葉道路や四ツ目通りを通る系統のうち、四ツ目通りの28系統は全線が併用軌道だが、京葉道路の29・38系統は亀戸駅近くの「水神森」停留所から専用軌道に入る。そして境川で29系統は左折して葛西橋へ。
38系統は直進して東陽町に向かう。ここは専用軌道だが並行道路でバス代替が可能と判断されたのだろう。廃止されてしまった。しかし、都電の車体とバスの車体では大きさが違い、バスでは運びきれないほどの乗客がいる。この中で地下鉄と無縁の28・38系統を代替した東22系統、都07系統(廃止当時は錦14系統)は3分間隔で頻発運行をしても客をさばききれない状態が日常で、これだけを見ても廃止は間違いだったことが明白である。もし、この区間の他に残すべき系統があるとすれば柳島を通る23系統、錦糸町北口から上野広小路を通って大塚駅までの16系統は残すべきだったと思う。だが、専用軌道が大半の29・38系統は廃止したのはおかしい。この両系統には荒川線にはない0メートル地帯を走る運河を太鼓橋で渡るという風情もあった。今からでも復活させてほしいと思うのは私だけだろうか。
いまの荒川線は都電離れしてしまった。完全なライトレールである。ワンマン化もされたが、バスと同じく前乗り先払い(釣銭方式)の中降り方式。これは全国的に見れば、特殊な方式で路面電車では東京都が全国唯一である。(なお、東急世田谷線は連結二人乗り(後部運転台に案内係(車掌ではない)がいる)で両端ドア乗車、中ドア降車方式だが、SuicaやPASMOなどICカード所持者に限り全ドアからの乗降が可能なので東京都電とは異なる)ほかのワンマンの路面電車は中乗り後払い前降り方式の整理券式で、つり銭は出ないので両替で対処する方式。これはバスの世界でも同じで、東京の前乗り先払い、つり銭式の中降り方式は少数派になっている。また、かつての路面電車のイメージで訪れるとかさ上げされて車体とフラットな停留所。バリアフリー化が進んでいるのがよくわかる。かつての都電のイメージはない。また、すっかり観光路線になっているが、地元客も多いので全線で混雑するが特に町屋駅~庚申塚。さらには大塚駅までの混雑は激しい。乗るなら始発から終点まで乗り通すのでなければ座席に座っての乗車は厳しいと思う。
唯一空いているのは三ノ輪橋~町屋駅間のみだと思う。