戦車誕生の背景「塹壕戦」どんな戦いか 日露激戦 WW1西部戦線 そして戦車登場の衝撃

戦車が実戦投入されて100年あまり。その誕生の背景には、銃火器の発達などで大規模になった塹壕戦があります。防御側が有利すぎたこの「塹壕戦」とはどのようなものなのか、日露戦争「203高地の戦い」などを見ていきます。

そして戦車の誕生へ…そのボロボロすぎるデビュー「ソンムの戦い」

 こうして生み出されたのが、世界初の戦車、「Mk.I(マークワン)」でした。

 Mk.I戦車は秘密裏に開発が進められ、戦場に送られました。戦車が「タンク」と呼ばれるようになった理由は諸説ありますが、このMk.Iを戦場に内密に運ぶため、周囲に「これはウォータータンクだ」と言って運んだという説もあります。

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第1次世界大戦期の、塹壕内陣地の様子。衛生環境はお世辞にも良いものとは言えず、兵士を悩ませた。イギリス ボービントン戦車博物館の展示より(柘植優介撮影)。

 ともあれこの世界初の戦車は1916(大正5)年7月、2年も続いた塹壕戦の切り札としてフランス北部、ソンムの地で初陣を飾りました。しかしその初陣は、はっきり言ってボロボロでした。

 投入が予定され用意されたMk.I戦車は60両、しかし輸送中のトラブルや故障で実際に到着したのは49両。さらにそこでもトラブルが起き、前線へと到着したのはわずか18両。ようやく前進し敵塹壕へと迫るも、エンジントラブルや、砲弾によって穿たれた地面の小さな穴にはまるなどし、ほとんどが使い物にならないという体たらく。敵陣へと到達できたのは、たったの5両だけだったといいます。

 しかし、敵はこの見たことのない新兵器に大パニックになりました。第1次世界大戦を通し、戦場に戦車が登場したのはこのソンムの戦いを含めて数回だけですが、それでも長く伸びた塹壕の隅々まで、その巨大な新装備のうわさは広がり、恐怖を与えました。

 そのころフランスでも戦車は開発されていましたが、やがてドイツやアメリカ、日本など、このイギリスの新兵器のうわさを聞いた各国の軍部も、自国で戦車を開発しようと躍起になります。こうして、第2次世界大戦およびそれ以後も続く戦車開発戦争は幕を開けたのです。

 一方、各国で戦車が開発され始めると、それまでのような大規模な塹壕戦は火が消えたかのように、あっという間に縮小していきました。やがて、ドイツ軍の「電撃戦」やソ連軍が駆使した「パックフロント」、アメリカ軍の市街戦戦術である「槍機戦術」など、戦車を主軸に置いたさまざまな戦術が編み出されていくことになるのです。

【了】

【写真】掘り巡らされた塹壕の様子が見える203高地

Writer:

なぎはまな。歴史は古代から近現代まで広く深く。2019年現在はフリー編集者として、某雑誌の軍事部門で編集・ライティングの日々。趣味は自衛隊の基地・駐屯地めぐりとアナログゲーム。

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コメント

2件のコメント

  1. >海軍からの要請もあり、どうしても203高地を手に入れたかった日本陸軍は

    これは、ちょっと違います。

    当初の主攻軸は「旅順要塞東北方面」でした。203高地は「旅順要塞西方面の前進陣地」です。

    203高地への主攻軸変更は、第三回総攻撃(明治37年11月26日-12月6日)の途中からです。

    ※Wikipediaの記事を参照しました

  2. 旅順攻囲戦が終わったときにはまだ日本海海戦は起こっていないので、海軍の大局は決まっていませんよ