枝久保達也(鉄道ライター・都市交通史研究家)の記事一覧
Writer: 枝久保達也(鉄道ライター・都市交通史研究家)
1982年、埼玉県生まれ。東京地下鉄(東京メトロ)で広報、マーケティング・リサーチ業務などを担当し、2017年に退職。鉄道ジャーナリストとして執筆活動とメディア対応を行う傍ら、都市交通史研究家として首都圏を中心とした鉄道史を研究する。著書『戦時下の地下鉄 新橋駅幻のホームと帝都高速度交通営団』(2021年 青弓社)で第47回交通図書賞歴史部門受賞。Twitter:@semakixxx
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「100km通勤が常識」になるはずだった? “限界状態”首都圏の救世主「通勤新幹線」6路線とは
今ではある程度普及している、新幹線での「長距離通勤」。これは1960年代に真剣に検討され、「新幹線とはまた別の路線」でそれを実現しようという動きがありました。
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「通勤地獄」を作ったのは誰か? 戦後の焼け野原からの「理想的な都市計画」が大失敗に終わるまで
1945年に日本は終戦を迎えました。その前から東京の「通勤ラッシュ」は限界に達していたため、国は復興とともにこれを解決しようと試みたのです。
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首都圏の鉄道計画 壮大な「ボツ路線」とは 70年代”夢の路線網” 3路線が「東松山」へ集中したワケ
現在の鉄道網は国が正式決定した整備計画に基づいて整備されましたが、計画段階でボツになった「構想線」が存在します。どんなルートがあったのでしょうか。
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100年続く「環七に鉄道を」計画 戦前にも二つの“第2山手線”構想 ルーツは小田急の父?
「山手線の外側にさらに環状線を作ろう」という構想が、戦前に2つ存在していました。現在の環状道路に沿う形で描かれた壮大なルートはどんなものだったのでしょうか。
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「新横浜の私鉄」誕生まで60年もかかったワケ【後編】 ラブホ街に交錯した市と3私鉄の思惑
相鉄・東急新横浜線の開業により、新幹線を含め5社局5路線が乗り入れるようになった新横浜駅。後編では長らく私鉄が通らなかった理由について、バブル経済の頃から見ていきます。
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「新横浜の私鉄」誕生まで60年もかかったワケ【前編】 駅前は長らく一面の田んぼだった
相鉄・東急新横浜線の開業により、新横浜駅は新幹線を含め5社局5路線が乗り入れる駅となりました。ただ、開業してから約60年間はJRと市営地下鉄のみ。なぜ私鉄線の進出が遅かったのでしょうか。前後編に分けて紹介します。
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都営浅草線「西馬込支線」は「銀座線の一部」だった!? 東京メトロになるはずだった“名残”今も
京急が直通する都営浅草線は、泉岳寺~西馬込間では「支線」のような扱いになっています。電車も半分が当区間で折り返す「地味」な路線、なぜ誕生したのでしょうか。
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都心部も「東急線」だったかも? “自前で新線”計画の挫折 なぜ“地下鉄へ直通”になったのか
東急は地下鉄副都心線や南北線、三田線などへ直通し、都心アクセスを実現しています。その実現までは紆余曲折があり、最初は「東急が自前の都心路線を持つ」野望を持っていたのです。
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幻の「地下鉄山手線」計画とは? 東急がガチで考えた「ハイパー副都心線」の顛末
かつて東京の地下鉄整備構想に、「地下鉄山手線」なる謎の路線が挙げられていました。結局それは正式計画とならず幻に終わってしまいましたが、いったいどんな路線で、どんな経緯があったのでしょうか。
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「国鉄復活」すべきなのか 「インフラは国で維持」の声多い令和時代 カギは国益にかなうか
JR北海道や四国に加え、コロナ禍を経て地方ローカル線を抱えるJR上場4社も厳しい経営を強いられています。するとしばしば聞かれるのが「JRの再国有化」です。国が面倒を見れば、この窮地を脱することができるのでしょうか。