「あってもなくても…」東急目蒲線を覚えているか 直通とは無縁な都会のローカル線

歌謡曲でイジられた不遇時代 でも東急のルーツ路線なのだ

 目蒲線も池上線も、古い3両編成とはいえ、ラッシュ時間帯は3分間隔の高頻度で運行されていました。日中も10分未満の間隔だったと記憶しています。いつも混んでいて、滅多に座れない。地域にとって重要な路線なのに、東急電鉄の中でも「残念な子」に見えました。

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旧3000系電車。西小山駅付近にて(1974年9月、松尾かずと撮影)。

 しかしそれが逆におもしろがられたようで、歌謡曲でイジられます。『池上線』(佐藤順英作詞、1975年)では「古い電車」「すきま風に震える」と歌われ、『目蒲線物語』(おおくぼ良太作詞、1983年)に至っては「あってもなくてもどうでもいい」とまで茶化され、笑いのタネになるほどでした。皮肉なことに『目蒲線物語』は、続編や姉妹編が作られるほどのヒット曲になりました。

 そんな目蒲線ですが、実は東急電鉄創業のきっかけとなった路線です。明治時代の実業家、渋沢栄一が「田園都市構想」を掲げて洗足、多摩川台地域を宅地開発します。その地域から都心へ向かうアクセス路線として目黒蒲田電鉄を設立、開通させました。後に支線として大井町線を建設、池上線の母体となった池上電気鉄道と、東横線の母体となる東京横浜電鉄を合併して、社名を東京横浜電鉄とします。これが東急電鉄、東急グループの母体となりました。

 目蒲線の開通によって沿線地域はたくさんの人々が住み、住宅密集地となりました。そして東急電鉄は多摩田園都市の開発に着手。投資を集中させます。その結果として、目蒲線と池上線は現状維持、中古電車の受け入れ路線となりました。

【写真特集】懐かしい 在りし日の東急目蒲線

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コメント

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4件のコメント

  1. 苦労して作ったところであってもなくても同じようなものの蒲蒲線。

  2. 多摩川のすぐ近くを走る矢口渡-蒲田間で地下化ですか?
    ほとんど狂気の沙汰ですね、ちょっとした大雨でもろくも水没する情景が目に浮かびます。 

  3. 筆者はWikipediaによれば私と1学年違いの池上線沿線生まれ、私は幼少時から現多摩川線沿線在住で祖父母が池上線沿線、同じ様に小学生から鉄道ファンということで、ほぼ完全に同時代の目蒲・池上線を体験していると思われます。写真も大変懐かしく拝見しました。
    新空港線対応で現在の多摩川線から目蒲線の面影が失われるかも、と書かれていますが、東横線から空港方面の直通電車はおそらく途中駅を通過となる(どの駅も地上ではホームの延伸余地は無い 20m 8−10両なんて絶対ムリ まさかの目黒線同等の地下化!?)でしょうから、私はむしろ一層のローカル感を増して行くだろうと考えています。線路の砂利から草ぼうぼうなんて、23区内に他にあります?

  4. かつて大岡山にある大学に世話になっており... この緑の車両、3000系というのですか、記憶にあります。
    すごくなつかしいです。たぶん1年のときのみこれだったような(入学年特定か)。
    右も左もわからぬ田舎者で、東京へ出てきて山手線(まだステンレス色じゃなかったはず)に何とか乗り、目黒に着いて乗り換えると、このちょっと古めの車両に「あら、大岡山というのは割と田舎なのかな?」とか思った記憶が。その後徐々に東京の地理がわかっていったのですが。
    大学の友達も目蒲線やその他東急線沿線に住んでたし、電車の記憶は当時の記憶でもあり。