旧日本陸軍 海軍にもない高性能クレーン船を運用…なぜ? 「蜻州丸」建造への経緯
艦砲を捨ててしまうのはもったいない…ので「船」を造ろう!
陸軍が自前クレーン船を建造するきっかけとなったのは、1923(大正12)年8月に発効した「ワシントン海軍軍縮条約」です。戦艦などの主力艦の保有に制限を課し、建造中の艦は廃棄させられることになったのです。
ライバル省庁の陸軍が、艦艇に装備されている大砲に目を付けます。精密加工工業品である大口径の大砲は、陸軍ものどから手が出るほど欲しいものでした。そこで陸軍は、捨ててしまうのはもったいない、離島の沿岸砲や要塞砲に転用するので譲渡するように、と動きます。海軍はせっかく調達した物品を、ライバル省庁にあっさり渡すわけはありません。霞が関では様々な駆け引きがありました。結果、海軍は大砲を引き渡すが運搬、輸送は陸軍が自分で行うことになりました。
しかし戦艦クラスの主砲や副砲となると、その重量は砲身のみでも100t前後におよび、離島に輸送、設置するには大型クレーン船が必要でした。当時の日本にもそれだけの揚重能力のあるクレーン船はあるものの、港内を移動できる程度の船であり、外洋を航行するのは不可能でした。陸軍は離島や海外にも要塞を建築していましたが、海軍の積極的な協力は望むべくもありません。
そこで陸軍は自前で大砲を輸送、揚重すべく、専用の特殊起重機船「蜻州丸」を造ってしまいました。1925(大正14)年に建造が開始され、1926(大正15)年4月に竣工します。「蜻州丸」には甲板の半分を占める揚重能力150tという巨大な主クレーン1基と、その両脇に20tまでの小型の副クレーン2基を装備していました。主クレーンはバランスのため、船体中心線方向でのみ使用されました。
何ともつまらない意地の張り合いに見えなくもありません。わざわざ陸軍が海軍と面倒くさい調整をして移管手続きを行い、限られた予算を割いて特殊起重機船を建造しても、まだ新規に要塞砲を建造するよりは安上りだったようです。
戦火を無事くぐり抜けたのに、戦後台風であっけなく…
とは因果なものです。
無事復員したのに交通事故で…という方のようです。
もちろん今の陸海空は関係は良いのですよね?
砲塔砲台には、海軍は積極的に協力してますよ。
一門に付き100発の砲弾を提供しています。
楊重→揚重
ご指摘ありがとうございます。修正いたしました。