目指せ東京! WW2イタリア「極秘の大陸横断飛行」見事到着も日本は認めず乗員拘束ナゼ?
「極東飛行作戦」見事成功! なのに搭乗員はなぜか軟禁
包頭(パオトウ)飛行場まで来れば日本へはあと少しですが、2か月前に起きたB-25爆撃機の本土初空襲により、我が国の防空体制が敏感になっていたので、安全対策から機体に日の丸を描きます。
そして整備と休養で1日空けた7月3日午前7時にS.M.75GA型は包頭を離陸、日本海を横断して17時4分、東京郊外の陸軍航空隊福生(横田)飛行場に見事到着します。この延べ8300kmもの大飛行は、当時のドイツ空軍でも実現不可能な偉業でした。
しかし連絡便は日本と中立条約を結んでいたソ連領空を通過していたため、日本側は飛行成功を発表せず、搭乗員達を飛行場内に軟禁。そして帰路はインド洋ルートを使うことと、ドイツ特使として派遣する予定であった辻政信陸軍中佐の同乗を要請したのでした。
この思わぬ冷遇にイタリア人搭乗員達は立腹、帰路の飛行ルートまで干渉されたくなかったモスカテッリ機長は、重量過多を理由に辻中佐の同乗を断り、さっさと帰国の途に就いたのです。
1942(昭和17)年7月16日午前5時20分、福生を離陸したS.M.75GA型輸送機は元のルートを通って帰路に就き、20日17時50分にスタート地点となったローマのグイドニア飛行場に無事帰還します。滑走路では、当時イタリアの指導者であったムッソリーニ統帥が一行を待ち受け、その労をねぎらい、ようやく作戦成功を内外に宣伝しました。
その後も極東飛行は計画されましたが、飛行ルートを巡って日本との折り合いが付くことはなく、翌1943(昭和18)年には東部戦線(ソ連戦線)の戦局が悪化し、クリミアの前進基地を失ったことで、イタリアは極東への航空連絡を断念。こうして極東連絡便は、ついに再開することはありませんでした。
【了】
Writer: 吉川和篤(軍事ライター/イラストレーター)
1964年、香川県生まれ。イタリアやドイツ、日本の兵器や戦史研究を行い、軍事雑誌や模型雑誌で連載を行う。イラストも描き、自著の表紙や挿絵も製作。著書に「九七式中戦車写真集~チハから新砲塔チハまで~」「第二次大戦のイタリア軍装写真集 」など。
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