なぜ? 空軍なのに戦車で地上戦ばかり でも恐ろしく強かったドイツの超エリート軍団とは

北アフリカで消滅 でもエリートゆえに再生

 ゲネラル・ゲーリング連隊はその後も継続して戦闘を続けましたが、12月には兵員や機材を大きく消耗したことから本国に帰還しました。しかし、その間の戦果は、航空機161機、戦車324両、コンクリートバンカー45基、各種砲167門、機銃陣地530か所、捕虜1万1000名という凄まじいものでした。

 このような大きな戦果を上げたからか、部隊は成長し続けます。1942(昭和17)年3月のヘルマン・ゲーリング自動車化連隊への改編を経て、7月にはヘルマン・ゲーリング旅団に拡充。それまでの防御主体の対空砲部隊から、攻撃主体の機械化された装甲部隊へと姿を変えました。

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1943年2月、北アフリカ戦線へ向けてダークイエロー単色に塗られたヘルマン・ゲーリング装甲師団所属のSd.Kfz.222装甲偵察車。ナンバープレートがWL(国防空軍)で始まるものを付けている(吉川和篤所蔵)。

 1942(昭和17)年10月には、より規模の大きな師団へと変貌。この拡充では空軍所属のパイロットや整備員など含め、志願者5000名が陸戦兵へと再配置され、また陸軍からも多くの戦車部隊将兵が空軍へと移管されています。そうしたことにより、ヘルマン・ゲーリング師団はIII号戦車やIV号戦車といった陸軍戦車部隊と同格の国産戦車を数多く配備するまでに至りました。

 結果、指揮下には1個戦車連隊と2個てき弾兵連隊(機械化歩兵連隊)、1個砲兵連隊、そのほか各種の支援大隊を有するほどとなり、同時期のドイツ陸軍の装甲(戦車)師団にも遜色ない規模にまで巨大化したのです。

 こうして、わずか1年ほどで規模を急拡大させたヘルマン・ゲーリング師団は、劣勢に陥っていた北アフリカ戦線に増援として派遣されました。しかし派遣された北アフリカでは奮戦かなわず、ほかのドイツおよびイタリアのアフリカ派遣部隊(アフリカ軍集団)とともに、チュニジアでアメリカ・イギリス連合軍に包囲され、1943(昭和18)年5月12日に降伏。経験豊かな兵員や機材のほとんどを一挙に失う事態に陥ります。そこで、オランダにて訓練中だった予備兵力が急遽イタリアへ送られ、再び戦車や突撃砲を補充して、ヘルマン・ゲーリング装甲師団として再編されました。

【空軍なのに…】飛行機ではなく戦車で打ち合わせするドイツ空軍将校

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コメント

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1件のコメント

  1. 装甲てき弾兵師団・・・この表記はカッコ悪いから止めていただきたい。