国鉄型電車「201系」今や絶滅危惧種 「省エネ電車」進化の記憶をたどる
国鉄時代に登場した201系通勤形電車ですが、いまではJR西日本のおおさか東線などで使用されるのみとなっています。その201系も徐々に数を減らしています。201系はどのような経緯で誕生したのでしょうか。
稼働車は100両を切る
201系通勤形電車がじわりじわりと数を減らしています。
JR西日本では、国鉄時代から使用している201系について、車両の置き換えに伴い2024年で運行を終了すると発表しています。そのようななか、2021年10月2日(土)から大和路線(JR難波~奈良)と和歌山線(王寺~高田)の一部運用を201系から221系電車に置き換えました。
これにより吹田総合車両所奈良支所に所属する201系に余剰が発生し、6両編成5本が疎開留置や吹田総合車両所に廃車回送となり、2021年11月末時点での稼働車は6両編成16本の96両。201系の製造両数は1018両ですので、すでに10分の1まで数を減らしたことになります。
さらにJR西日本では、2022年3月のダイヤ改正からおおさか東線の普通電車に使用している201系をすべて221系にすると発表しています。
消えゆく201系ですが、もともとどのような経緯で登場したのでしょうか。
201系は、国鉄が101系電車・103系電車に代わる車両として投入した直流通勤形電車で、1979(昭和54)年に試作車(900番台)5両編成2本(10両)が登場しました。
1973(昭和48)年に起こった第1次オイルショックにより、世界的に省エネルギーが叫ばれていましたが、国鉄では省エネルギー化の技術開発を行い、201系で初めてサイリスタ・チョッパ制御方式と電力回生ブレーキを採用しました。そのため登場当時は「省エネ電車」とも呼ばれました。
車内の座席モケット(表地)は103系では青系だったものを201系では茶色系とし、7人掛け部分は3人+1人+3人と区分できるように1人の場所は色を変えて明確化。客室窓は上段下降・下段上昇式とし、上段の窓は開閉しやすいようにバランサーと呼ばれるばねを設けたほか、先頭車はブラックフェイスで、車内のドア間にスタンションポール(握り棒)を設けたのも特徴です。
5両編成の試作車は営業運転に向けて各種試運転を実施したほか、10両編成に組み替えての試運転も行いました。
10両編成は基本7両+付属3両で、当時の中央快速線で使用していた101系や103系と編成を揃えたものです。基本・付属編成とも東京方のクハ201形以外は電動車のため、8M2Tの編成となりました。
省エネルギーを目的としているのに電動車が多いのは妙ですが、『鉄道ファン』1979年4月号(通巻216号/交友社・刊)によると、試作編成であることや各種試験などを計画していること、三鷹電車区(現・三鷹車両センター)の構内配線などを勘案し、あえて8M2Tの編成にしたそうです。
営業運転を前にした1979年5月13日には、原宿駅の宮廷ホームで5両編成を展示した一般公開を実施。国鉄が「省エネ電車」に対する意気込みを感じさせるものでした。その後、同年8月20日に中央快速線で営業運転を開始。国鉄初の「省エネ電車」はスタートを切ったのです。
J西N40の「円」の字窓も歴史的価値があると認められればですね。
動態で走らせないとしても103系もそうですがクハばかりというのもどうなんでしょう。
試作車の8M2Tの件ですけれども営業開始後しばらくして乗って運転室を見たらユニットカットと書いてあった、という話を聞いたことがあります。