空母「蒼龍」が竣工した日-1937.12.29 姉妹艦「飛龍」とは所々違う
姉妹艦はミッドウェーに没す
「蒼龍」と「飛龍」の外見上の大きな違いは、艦橋の位置でしょう。「蒼龍」は日本の空母では一般的な右舷に設けられています。ただ、最小限の大きさで設置されたがゆえに駆逐艦と同程度しかなく、指揮の取りにくさからか、ハワイ作戦(真珠湾攻撃)の際には旗艦の任を「飛龍」に譲っています。
実戦では「蒼龍」は、前出の真珠湾攻撃に参加。ここに太平洋戦争の火ぶたが切られます。翌1942(昭和17)年からは南方への作戦に参加し、2月のオーストラリア・ダーウィン空襲、3月のセイロン沖海戦などで戦果を挙げました。
しかし同年6月、太平洋戦争における勝敗の分岐点ともいわれるミッドウェー海戦が運命の一戦となります。味方機から相次いで「敵発見」が報告されるたび、「蒼龍」の飛行甲板では艦載機に対し、艦船攻撃用の魚雷と陸上攻撃用の爆弾との転換が行われました。攻撃隊の発進は大きく遅れます。
4日午前7時20分ごろ、アメリカ軍の急降下爆撃機が襲来します。発進準備中の飛行甲板に爆弾が命中し、兵器や機体に次々と誘爆。「蒼龍」はあっという間に炎に包まれます。しかし消火活動もままならず、およそ9時間後に「蒼龍」は沈没しました。
ミッドウェー海戦には「飛龍」も参加していました。「蒼龍」に爆弾が命中した頃、離れた場所にいたために難を逃れた「飛龍」は、炎上する「蒼龍」を遠目に見ながら攻撃隊を発進。アメリカ軍の空母を空襲し、大破させます(後に沈没)。とはいえその後、優勢に転じたアメリカ軍の急降下爆撃を受け「飛龍」も沈没。姉妹艦は2隻とも、ミッドウェーの海に没したのでした。
【了】
歴史のIFですが、蒼龍と運命を共にした館長・柳本竜作氏が、加賀が被弾した時に、加賀の後方約10キロほどを航行していた同艦の総舵手に「全速前進、面舵一杯」を命じて急旋回を指示したそうですが、あと、10秒ほど早く、回避運動を取っていたら、急降下爆撃をかわせたかもしれないという説があります。但し、現実はどうだったでしょうか?かわせたかもしれないし、やはり直撃をくらっていたかもしれないし、、、