戦艦「金剛」が起工した日-1911.1.17 老体に鞭打ち30年の殊勲艦 生まれはイギリス
「たかが2本」の命中魚雷が致命傷に
とはいえ太平洋戦争が始まった1941(昭和16)年12月時点で、「金剛」はすでに最古参の戦艦でした。ただ、海戦の主役が戦艦から空母へ移った時代においても、ほかの戦艦に比べ実に多くの作戦で運用されました。
開戦直後の南方作戦では、マレー沖海戦の後にインド洋に進出、イギリス領(当時)クリスマス島への艦砲射撃などを行いました。その後、1942(昭和17)年4月のセイロン沖海戦、6月のミッドウェー海戦に参加し、北方作戦の支援へと向かいます。
10月にはガダルカナル島を巡る一連の戦いで、軽巡洋艦や駆逐艦を率いて同島にあるアメリカ軍のヘンダーソン飛行場を攻撃します。ただ、徐々に制海権はアメリカに移っており、その後、南太平洋海戦などに参加するも大きな戦果は挙げられないまま、僚艦を相次いで失っていきました。
1944(昭和19)年に入ると、6月のマリアナ沖海戦、10月には「金剛」の最期となったレイテ沖海戦に参加します。
25日朝、「金剛」は戦艦「大和」などと作戦行動中、サマール島沖でアメリカの護衛空母群と会敵、砲撃を加えます。特に「金剛」は俊足を生かし、アメリカ軍の駆逐艦が放った魚雷を回避しつつ空母群を追尾、集中砲火を浴びせます。この海戦で日本側はアメリカ軍の護衛空母1隻、駆逐艦2隻を撃沈したものの、それ以上の戦果を挙げることなく反転・撤退しました。
そのようななか、11月に「金剛」は日本本土へ帰還する途中、「大和」や「長門」とともにアメリカ軍の潜水艦に発見されます。潜水艦は魚雷を発射、うち2本が「金剛」に命中します。
この魚雷2本が歴戦を重ねた老体には致命傷となりました。レイテ沖海戦での損傷箇所も相まって、航行は可能でも艦内の浸水は徐々に進行していきます。魚雷命中から約2時間後、台湾北西部の沖合で「金剛」は転覆するとともに大爆発を起こし沈没しました。
「金剛」は日本の戦艦では唯一、潜水艦の攻撃で沈んだ艦となりました。
【了】
鉄道省初の空調船だった関釜連絡船の金剛丸を思い出しました。