知られざる「日本人初エースパイロット」の足跡 義勇兵バロン滋野フランスの空を守る
故郷へ錦を飾るはずが…不遇と若すぎる死
戦後、滋野は自分の経験を祖国日本へ還元したいという熱意をもって凱旋帰国します。これは日本にとって奇跡的な幸運でした。ところが、残念なことに滋野の経験は何も日本に益をもたらしませんでした。一度は追い出した滋野に教えを乞えるはずがありませんし、実際に日本陸軍航空の最高責任者などは、日本の航空の歴史において滋野の存在を隠蔽してしまうほどでした。
大戦を生き抜いた世界屈指の超ベテランのエースは、近所の子供たちと模型飛行機で遊ぶ「飛行機おじさん」となってしまいました。滋野はもともと病弱気味だったこともあり、その後の多数の日本人パイロットらの命、ひょっとするならば国家の命運さえ左右したかもしれない膨大すぎる経験を抱えこんだまま、1924(大正13)年に病死してしまいます。42歳という若さでした。
滋野の死はすぐにフランスまで伝わり、多くの人たちが悲しみました。なかでも滋野の戦友であり、大戦後は冒険飛行家として日本にもやってきたジョルジュ・ペルティエ=ドイジー大尉は、フランス紙「ルプチパリジャン」においてこのように記しています。
「滋野が急死したという残酷な知らせを受けました。数か月前、大阪の滑走路に降り立った私を大勢の日本人が歓迎してくれました。そのなかに三本線(大尉の階級章)を縫い付けたフランス軍制服を着用した日本人、滋野が居たことは感動的でした。我々にとって最も温かい友人であり、尊敬すべきパイロットである滋野の記憶ほど、我々が忘れてはならないものがほかにありましょうか?」
滋野が所属したシゴーニュ戦闘航空群のエンブレムである、美しく飛翔するコウノトリ(シゴーニュ)は、もともと滋野の愛妻、わか子の名を冠した滋野専用スパッドS.VII「わか鳥」の識別マークでした。
2022年現在、フランス航空宇宙軍・空軍・第1戦闘航空連隊・第2戦闘航空群「シゴーニュ」の、ミラージュ2000F-5超音速戦闘機の垂直尾翼には、日本からやってきた滋野の愛機に描かれていたエンブレム「わか鳥」の末孫たちが、100年前のスパッドに描かれていたころと変わらぬその美しい翼を羽ばたかせており、いまもフランスの空を守っています。
日本が滋野を忘れようとも、フランス軍の偉大なる日本人義勇兵パイロット、キヨタケ・シゲノの名はフランスの文化と一体化し、永遠に残り続けるでしょう。
【了】
Writer: 関 賢太郎(航空軍事評論家)
1981年生まれ。航空軍事記者、写真家。航空専門誌などにて活躍中であると同時に世界の航空事情を取材し、自身のウェブサイト「MASDF」(http://www.masdf.com/)でその成果を発表している。著書に『JASDF F-2』など10冊以上。
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