兵庫の平野に蘇った「九七式艦上攻撃機」空母関係ない場所になぜ?「紫電改」に次ぎ登場

太平洋戦争開戦時の主力艦上攻撃機

 今回、原寸大模型で再現された九七艦攻は、1937(昭和12)年に中島飛行機で開発された3人乗りの艦上攻撃機です。機体は全金属性の低翼単葉構造で、国産の単発機として初めて引込み脚を採用するなど近代的な設計が特徴の軍用機でした。そのため、それ以前の複葉タイプの九六式艦上攻撃機と比べて、「栄」エンジンを搭載した改良型の三号は最高速度も約100km/h向上の378km/hとなり、以降は旧日本海軍の主力攻撃機として運用されています。

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機首のカウリング(エンジンカバー)は、前方に膨らんだ「光」3型エンジンを搭載した九七式一号艦上攻撃機の特徴を良く再現している。また胴体下面には80番爆弾(800kg)が懸吊されている(吉川和篤撮影)

 また急降下爆撃機として開発され、爆弾しか装備することができなかった九九式艦上爆撃機とは異なり、九七艦攻は爆弾と魚雷の両方が搭載可能であったため、日中戦争や太平洋戦争の様々な戦いに投入されました。

 特に1941(昭和16)年12月のハワイ真珠湾攻撃では、空母から発進した九七艦攻143機のうち、魚雷を搭載して飛び立った40機がアメリカ海軍の戦艦4隻を含む6隻の艦艇を雷撃して、20本以上を当てる高い命中精度で大戦果を挙げています。

 しかし、戦争半ば頃からは速力不足も目立つようになったため、その地位を新型の艦上攻撃機「天山」に譲り、以後は練習機や対潜水艦用の哨戒機などとして使用されました。また1945(昭和20)年8月には、北千島に上陸したソ連軍(当時)上陸部隊に対して占守島の基地を出撃した九七艦攻が爆撃を行い、旧日本海軍艦上攻撃機として最後の戦闘を行っています。

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