見事復元「九七艦攻」に描かれた機番の意味 兵庫「鶉野」と北条鉄道が伝える戦争の記憶

兵庫県加西市で太平洋戦争の初期に活躍した九七式艦上攻撃機の原寸大模型が事前公開されました。その場所にはかつて旧海軍の飛行場があり、飛行機以外にもさまざまな戦争にまつわるハナシが点在していました。

練習機による特攻隊の編成

 兵庫県加西市の鶉野(うずらの)飛行場跡地に新設された加西市地域活性化拠点施設「soraかさい」において、2022年4月18日から九七式艦上攻撃機一号(一一型)の原寸大模型が公開されます。この展示は、太平洋戦争中の1943(昭和18)年10月に、パイロットの養成目的で同地に創設された姫路海軍航空隊と、基地で使用されていた機体のひとつが九七艦攻だったことに因んだものです。

 この場所の歴史をひも解くと、そこには戦争末期ゆえの、さまざまな物語を見ることができました。

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加西市地域活性化拠点施設「soraかさい」で公開される九七式艦上攻撃機一号(一一型)の原寸大模型。80番爆弾を搭載して、尾翼には佐藤大尉機を示す「ヒメ-305」のマークが見える(吉川和篤撮影)。

 そもそも九七式艦上攻撃機は、旧日本海軍が太平洋戦争で多用した単発エンジンのプロペラ機です。1937(昭和12)年に中島飛行機(現SUBARU)で開発された3人乗りの艦上攻撃機で、当時としては先進的な全金属製で低翼単葉の構造を有していました。

 機体下部には魚雷と爆弾の両方が搭載可能で、日中戦争から実戦に参加。1941(昭和16)年12月のハワイ真珠湾攻撃では、空母から発進した魚雷搭載の九七艦攻三号(一二型)40機がアメリカ海軍の戦艦4隻を含む6隻の艦艇を雷撃して、20本以上を当てる大戦果を挙げています。

 しかし、速力不足などから太平洋戦争の半ばには旧式化が目立つようになり、それ以降は練習機や対潜水艦用の哨戒機などに転用されました。そうしたなか、姫路海軍航空隊でも約30機の一号(一一型)が訓練機材として飛び続けていたのですが、戦局が悪化したことで、再び九七艦攻を戦場に送りだすことになりました。

 1945(昭和20)年2月8日、姫路海軍航空隊である海軍実用機教程練習機航空隊は再編により実戦部隊の第十航空艦隊となり、全機を使用して特別攻撃隊「白鷺隊」(はくろたい)を編成することになります。なお、志願者として残った搭乗員たちは、今度は特攻隊として猛訓練に励むようになりました。

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