「司令官は最前線へ」の伝統が原因? 旧日本海軍の連合艦隊トップ戦死の2大事件
「指揮官先頭」を捨てられなかった旧日本海軍
「やってみせ 言って聞かせて させてみて 誉めてやらねば 人は動かじ」とは、山本五十六の格言です。
古来より指揮官は軍の先頭に立って戦うことで兵士の士気を高めてきました。特に海軍は軍艦同士の戦いなので、司令官は旗艦で指揮するのが伝統です。日露戦争の日本海海戦では、当時の連合艦隊司令長官だった東郷平八郎も、司令部要員とともに戦艦「三笠」で指揮を執っています。
しかし、太平洋戦争は南太平洋を中心に広い範囲に戦場が広がり、連合艦隊司令長官がそのつど海戦に出陣する状況ではなくなりました。戦艦「武藏」を旗艦にした連合艦隊司令部は、中部太平洋のトラック島で指揮をしています。
この時、すでに世界では艦隊司令長官が陸上の司令部で全体の戦局を見ながら指揮する形に変わりつつありました。アメリカ海軍の太平洋艦隊司令長官であるニミッツ大将はハワイ真珠湾に設けられた陸上司令部で、ドイツ海軍については、レーダー大将とその後任のデーニッツ大将ともに、ポーランドにあったヒトラーの総統大本営、通称「狼の巣」で指揮を執っていました。
ちなみに、イギリス海軍は本国艦隊、地中海艦隊、東洋艦隊があり、作戦海域が別れていたため連合艦隊のような組織ではありませんでした。イタリア海軍は主力艦隊司令官バルガミーニ大将が戦艦「ローマ」と運命を共にしています。
山本五十六の軍歴を見ると、ロンドン海軍軍縮会議の随員や主席代表、海軍次官など、艦隊指揮官よりも軍の政治家としての活動の方が目につきます。航空機を主力にした「航空主兵」論を提唱したことでも知られ、海軍省の航空本部長時代にはアメリカとの戦争に備えて一式陸攻の前身である九六式陸上攻撃機(九六式陸攻)の開発を主導しました。
なお、彼は博打を好みポーカーが得意だったと伝えられていることから、駆け引きが得意だとして政治家に向いており、周りからは海軍大臣になると目されていたようです。
ところが、山本五十六は日米開戦に反対の立場を明言していたことから、開戦派のテロを避けて安全な海にいられるよう、当時、海軍大臣を務めていた米内光政大将の指示で連合艦隊司令長官に転出させられたといわれます。
最前線で指揮を執ったのとは違うけど
同大戦中アメリカ海軍太平洋艦隊潜水部隊司令官のイングリッシュ少将も
航空機墜落事故により亡くなっていますね。
まあ、あちらは後任の司令官ロックウッド少将の方が有能で
彼の育てた潜水艦部隊いわゆるサイレントサービスが
日本軍の補給線を絶ち戦局に大いに貢献したと評価されてるけどね。