「司令官は最前線へ」の伝統が原因? 旧日本海軍の連合艦隊トップ戦死の2大事件

またしても起こった「長官機墜落」

 実際のところ、山本五十六にとって司令長官として立てた計画は、アメリカ艦隊を一気に叩いて早期講和を目論んだ、博打ともいえる真珠湾攻撃以外に見るべき実績がありません。ハワイ攻略も計画しましたが、旧日本陸軍からは成功しても補給が難しいので占領は続けられないと反対されます。その代案がミッドウェー作戦です。

 しかし、ミッドウェー作戦は失敗に終わりました。しかも、1942(昭和17)年8月にアメリカ軍がガダルカナル島に上陸し反攻が始まると、本格的な消耗戦が始まり日本は徐々に押されていきます。そのような状況下、彼が最後にとった作戦はアメリカ軍の上陸部隊を航空攻撃する「い」号作戦でした。

 そして「指揮官先頭」を実行すべく、前線の将兵を鼓舞するため連合艦隊司令部をラバウルに進出させます。こうして、前出の撃墜事件が起こることになったのです。

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輸送飛行艇「晴空」の姉妹機である二式飛行艇(画像:アメリカ海軍)

 連合艦隊司令長官の戦死は、その後の作戦に大きな影響を及ぼしましたが、それでも旧日本海軍の首脳陣は「指揮官先頭」を捨てられませんでした。1944(昭和19)年3月31日、山本五十六の後任となった古賀峯一司令長官は、パラオからフィリピンのダバオに飛行艇「晴空」で移動中、天候不順で行方不明になりました。この時も参謀長が乗った2番機は不時着し、司令部要員の何人かは生き延びています。こちらを海軍乙事件といいます。

 古賀峯一の殉職後、旗艦が「武蔵」から軽巡「大淀」に移され、海軍乙事件から半年後の9月29日に司令部は横浜市の日吉台へ移転しました。旧日本海軍は、こうしてようやく司令長官が陸上で指揮を執ることになりましたが、それは取り返しのつかない損失を出した後のことでした。

 こうして見てみると、海軍甲事件と海軍乙事件の両方とも、旧日本海軍が旧来の伝統から脱却する過渡期に起こった出来事であり、その代償はあまりにも大きかったといえるのではないでしょうか。

【了】
※誤字を修正しました(4月20日12時11分)。

【写真】山本五十六の生前最後の姿ほか

Writer: 時実雅信(軍事ライター、編集者、翻訳家)

軍事雑誌や書籍の編集。日本海軍、欧米海軍の艦艇や軍用機、戦史の記事を執筆するとともに、ニュートン・ミリタリーシリーズで、アメリカ空軍戦闘機。F-22ラプター、F-35ライトニングⅡの翻訳本がある。

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コメント

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1件のコメント

  1. 最前線で指揮を執ったのとは違うけど
    同大戦中アメリカ海軍太平洋艦隊潜水部隊司令官のイングリッシュ少将も
    航空機墜落事故により亡くなっていますね。
    まあ、あちらは後任の司令官ロックウッド少将の方が有能で
    彼の育てた潜水艦部隊いわゆるサイレントサービスが
    日本軍の補給線を絶ち戦局に大いに貢献したと評価されてるけどね。