国道1号で最も寂しい区間?「鈴鹿峠」なぜ廃れたか 東海道の難所はまるで交通の博物館
鉄道開通で没落も、道路整備でふたたびメインルートに!
そして時代は明治に移り、1890(明治23)年に関西鉄道(現在の関西本線)が開通すると、人々の流れは30kmほど南側の加太峠越えに移ってしまいます。このまま鈴鹿峠の沿道や宿場町は朽ち果てるかと思われました。
しかし1924(大正13)年、鈴鹿峠の下に6m強の幅を持つ鈴鹿隧道(鈴鹿トンネル)が開通します。1932(昭和7)年には後の国鉄バス亀草線(亀山~草津)となる峠越えのバス路線が開業するなど、沿道は一挙にクルマの要衝へと変化を遂げました。
戦後も鈴鹿峠は東京~大阪間の経路としてだけでなく、工業地帯として発展した鈴鹿・四日市と近畿圏を結ぶ最短ルートでもあり、トラックの通行が極めて多かったといいます。つづら折りの車道には退避所や当時としては最新の車両防護柵などが次々と整備され、国道1号沿いにはドライブインや大衆食堂、駐車場を完備した宿泊施設、24時間営業の健康ランドなどが次々と立ち並ぶようになったのです。
しかし1965(昭和40)年、滋賀県側に名神高速、三重県側に名阪国道が相次いで全線開通します。特に、鈴鹿峠にも比較的近い名阪国道は通行無料だったこともあり、トラックの多くが国道1号からそちらへルートを切り替えました。
それでも、鈴鹿峠は四日市方面の工業地帯から滋賀・京都への最短ルートであることに変わりなく、まだまだ交通量を保っていました。1978(昭和53)年には「鈴鹿峠バイパス」が開通、全長10kmにわたって上下2車線が一方通行・別経路という現在の状況となります。
この頃まではまだ賑わいを保っていたものの、2008(平成20)年、鈴鹿峠を横断するように新名神高速が開業したことで、国道1号の交通量は4分の1以下へ激減し、ふたたび旧道のような扱いに。沿道に数多く連なっていた店舗や施設は新名神の開業と前後して次々と閉業していきました。
私も乗り鉄や乗りバスをしてます。宮武さんもご存知と思いますが、以前は亀山駅から鈴鹿峠を越える国鉄バス路線があり、私が乗り鉄や乗りバス趣味をするようになったきっかけでもある友達、また私にとってはその趣味のお師匠でもあるその友達が「一緒に乗りに行こうよ」とのことで、当時はまだ中学生か高校生だったかの頃に乗ってます。ただ当時はいろいろとバス路線の支線もあり、バス路線本線も一部乗っただけで満足して帰路についてしまい、それ以後は一部路線を乗ったのみで、今から思い返しても惜しいことをしたなと思ってます。
とりあえず以上です。参考になりましたなら幸いです。(終わり)