国道1号で最も寂しい区間?「鈴鹿峠」なぜ廃れたか 東海道の難所はまるで交通の博物館
東海道&一級国道だった鈴鹿峠、栄華の跡をたどる
400年間にわたって主要道路化と旧道化を繰り返してきた鈴鹿峠には、その時代ごとに整備された街道・道路の痕跡を多く見ることができます。
江戸時代の東海道の名残としては、鈴鹿隧道の上にかつての鈴鹿峠の茶屋跡などがあり、峠道から片山神社・旧坂下宿へ降りる石段も往時のまま残されています。また峠から少し外れると、野盗が岩に映る人影を見て標的を定めていたという「鏡岩」も残り、この岩の近辺から見下ろす国道1号や伊勢平野は絶景です。
国道1号のバイパス整備で旧道化した場所には、1992(平成4)年以前、車両の種類によって「高速車」「中速車」「低速車」を区分していた頃の名残である道路標示「40高中」などが残っています。また、上下線が分離され一方通行となった区間の道路標識は、「一方通行」に1文字足した「一方通行路」の補助標識や、目立つ色合いの表示看板など、鈴鹿峠以外ではあまり見ない独特のものです。
道路の付け替えによる廃道も、一部で自動車の進入が禁止となっているものの、数か所で残っています。国内に鉄製のガードレールが登場する1958(昭和33)年以前のものと思われるコンクリート製の車両防護柵や、戦前に建設された橋なども健在です。しかし廃道区間も最低限の点検はされているようで、道路の管理票が“平成29年”の日付で掲げられていました。また沿道には廃業した施設が多く、三重県側には「鈴鹿馬子唄」の歌詞が看板に大きく刷られた観光レストランが、閉業後20年以上も放置され草生しています。
鈴鹿峠の周辺は、時代とともにさまざまな形で変わり続けてきました。しかし昔も今も変わらないのが、天気の変わりやすさ。この取材日も13時頃まで快晴だったはずが、3時間後には鈴鹿峠の頂上でゲリラ豪雨に。乗り込んだ車の座席が翌日まで乾かないほどずぶ濡れになりました。歴史が詰まった峠を越える際は、カッパや折り畳み傘などの準備をくれぐれも忘れずに。
【了】
Writer: 宮武和多哉(旅行・乗り物ライター)
香川県出身。鉄道・バス・駅弁など観察対象は多岐にわたり、レンタサイクルなどの二次交通や徒歩で街をまわって交通事情を探る。路線バスで日本縦断経験あり、通算1600系統に乗車、駅弁は2000食強を実食。ご当地料理を家庭に取り入れる「再現料理人」としてテレビ番組で国民的アイドルに料理を提供したことも。著書「全国“オンリーワン”路線バスの旅」など。
私も乗り鉄や乗りバスをしてます。宮武さんもご存知と思いますが、以前は亀山駅から鈴鹿峠を越える国鉄バス路線があり、私が乗り鉄や乗りバス趣味をするようになったきっかけでもある友達、また私にとってはその趣味のお師匠でもあるその友達が「一緒に乗りに行こうよ」とのことで、当時はまだ中学生か高校生だったかの頃に乗ってます。ただ当時はいろいろとバス路線の支線もあり、バス路線本線も一部乗っただけで満足して帰路についてしまい、それ以後は一部路線を乗ったのみで、今から思い返しても惜しいことをしたなと思ってます。
とりあえず以上です。参考になりましたなら幸いです。(終わり)