【懐かしの私鉄写真】小田急で100km超え通学 相鉄にはロクサン 相模線にはC11の時代

新宿~大根(現・東海大学前)間往復100km超えの通学。多くの同級生には苦痛だったようですが、私は教科書と一緒にカメラを持ち歩き、暇を見つけては小田急を撮っていました。後半では相鉄や国鉄相模線も紹介します。

この記事の目次

・HE車大増備中 急行は8連運転開始
・夏ダイヤで大増発の江ノ島線 専用の方向板もお目見え
・元国鉄モハ63形も走っていた相鉄
・国鉄相模線は厚木で小田急とつながっていた

【画像枚数】全29点

HE車大増備中 急行は8連運転開始

 高校に入学した1961(昭和36)年4月から、大学を卒業する1968(昭和43)年3月までの7年間、私は通学に小田急を利用していました。特に大学の一般教養の2年間は、新宿~大根(現在の東海大学前)間で往復100km超を移動しており、大部分の同級生にはかなり苦痛でしたが、小田急ファンの私にはそこそこ楽しい毎日でした。

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大秦野(現在の秦野)で特急を待避する「丹沢号」。土日曜に限って新宿~新松田間で運転される丹沢登山客向けの列車で、途中の停車駅は渋沢、大秦野、本厚木、向ヶ丘遊園と少ない(大秦野/1964年8月、楠居利彦撮影)。

 当時の小田急はHE車(2400形)が増備の真っ最中。普通列車は開業時からのHB車と呼ばれる2扉車が新宿まで顔を出していました。NSE車(3100形)が登場して特急が30分ごとになり、急行の8連運転開始、大型通勤車の2600形が登場し、夏ダイヤでは江ノ島急行が大増発という、変化に富んでおもしろい時代でした。

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東北沢を通過する御殿場線直通の特別準急「長尾」。国鉄線内が準急なので、小田急線内では特別準急という種別だった。下りは特急に続行する列車もあり通常は単行、土曜の午後の便などは最大3連になった(東北沢/1963年3月、楠居利彦撮影)。
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1964年11月のダイヤ改正から急行、準急の8連運転が開始された。朝夕には吊掛式のABF車も動員され、新宿寄りの4両が1600形となる編成が多かった。喜多見付近はまだ北多摩郡狛江町の時代で、沿線は田畑が広がっていた(喜多見~狛江/1964年11月、楠居利彦撮影)。

 大学に入ってからはほぼ毎日カメラは持ち歩いていましたが、今のデジカメのようにちょっとしたスナップでも数10枚を撮るということはありません。カラーはまだ普及し始めた頃で、フィルム代が高いから、そうそう手は出せず、モノクロフィルムは自分で現像していました。

 高校時代のカメラは友人からの借り物だったり、距離合わせが目測式のものも使ったりしていました。シャッタースピードは1/500秒がほぼ最速だったので、ピンボケや被写体ブレなどは当たり前。1965(昭和40)年頃から一眼レフを使えるようになり、だいぶ安定した写真が撮れるようになりました。こういう状況なのでご覧いただく写真に時系列的な脈絡はなく、1枚撮りの寄せ集めです。小田急については新宿に近い順にまとめています。

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Writer: 楠居利彦(鉄道ライター)

1946年、東京生まれ。中央線の沿線で育ったので、鉄道は複線で電化され、長編成の電車が頻繁に走るものと認識している。鉄道誌の創刊に関わり、車両データ本の編集を担当した。趣味は鉄道模型製作。

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