渋谷駅の顔だった「地下鉄が地上3階から発車するビル」なぜできた? 解体直前~現在の記録

玉電ビルの痕跡を探す

 1938(昭和13)年から翌39(昭和14)年にかけ、それぞれの乗り場は開業しました。しかし4階部分の地下鉄乗り場を覆う躯体が完成した時点で、日中戦争や太平洋戦争による物資統制のため工事は中止され、玉電ビルは未完成のまま戦後を迎えます。終戦直後の玉電ビルは、地下鉄を覆う躯体を剥き出しにした“仮屋上”の状態で、しばらく変化がありませんでした。

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在りし日の東急東横店西館。坂倉準三設計の外観はのっぺりとした壁面に小窓が点在するのが特徴だ。その小窓の一部は館内の階段にある。私はずっと、城壁の銃眼(狭間)みたいに感じていた(2020年3月、吉永陽一撮影)。

 1953(昭和28)年、地下鉄は銀座線と命名されました。同年、玉電ビルは坂倉準三の手によっていよいよ4階より上が増築されます。坂倉はル・コルビュジェに師事した建築家です。翌1954(昭和29)年に11階建てとなり、「東急会館」が竣工しました。小窓と湾曲した壁面が特徴的なビルがお目見えし、竣工当時は軒高43mと日本一の高さを誇りました。

 館内は5~7階が百貨店売場、8階が大食堂、9~11階は1000席を超える劇場「東横ホール」を配した総合施設でした。また同年、山手線直上に回廊の役目を兼ねた5~7階建ての中央館を増築。東横百貨店と繋がります。1970(昭和45)年には南館が竣工し、渋谷駅は東西南と百貨店、文化施設を直結したターミナルとなっていったのです。

 こうしてできあがった複雑なターミナルビルでしたが、再開発を前に銀座線ホームは一足早く、2020年1月3日に新ホームへ移転しました。改札口は閉鎖されていたものの、同年3月の段階ではまだ3階の旧改札へ上がることが可能だったので、私は記録を兼ねて訪問しています。等間隔に並んだ柱と低い梁――。この柱か、あるいはもっと線路寄りの柱が、玉電ビル時代に建設中止となった仮屋上の覆いだったのかと推測できます。

 では戦後増築部分の繋ぎ目は何かしら残っているのか。館内を探索してみました。銀座線旧降車ホーム側の3階はまだ文具店などが営業中で、私は下へ降りる人々の流れから外れて館内西側外れの階段を上がります。大理石壁面の立派な階段で、3~4階の踊り場には低い梁があります。ただしほかの階は踊り場に梁はなく、低い梁は3~4階部分だけで不自然です。確証はないのですが、この踊り場が増築の繋ぎ目部分なのではないかと推測しました。

【写真】露出した80年前の躯体 ほか、トマソン的空間や古い鉄扉

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1件のコメント

  1. 南北線や都営三田線の品川駅も高架構造でええんちゃう?