日本初の鉄道建設に関わった“しょこたん”のご先祖 「高輪築堤」だけじゃない その名残を追う
高輪築堤はいかにして造られたのか 開業は見ずに
平野弥十郎が率いる作業班は、まず現在の品川八ツ山を約3m切り下げるなどして、その残土を確保。海上の築堤から陸地に入った鉄道は、切り下げによってできた低地を通過する線形で、開業当時の品川駅もこの場所に設けられていました(現在の八ツ山橋の北側)。
また築堤を固めるため約30cm×90cmの石を4万本も調達する必要があり、石の産地である神奈川県真鶴、根府川などの有力者に協力を依頼しています。また弥十郎は薩摩藩との縁を生かし、高輪の旧薩摩藩邸(現在のSHINAGAWA GOOSなどの一帯)の庭石も一部使用したようです。
弥十郎は築堤に近い現在の高輪ゲートウェイ駅西口近辺に事務所を構え、鉄道工事に忙殺される一方、時には鉄道建設を担当する大久保利通や木戸孝允と交流を持ち、酒を酌み交わすことも。工事は順調に進み、開業の前年には馬が踏み固めた築堤の上に資材運搬用のレールが敷かれるまでになります。
この頃には明治維新後のインフラ建設も各地で進み、平野と関係が深かった棟梁・2代目清水喜助(現在の清水建設の源流)のように、名声や財産をなす土木関係者も多かったといいます。しかし弥十郎は、1872(明治5)年10月の鉄道開業にも試運転にも立ち合わず、北海道を開拓する官庁「開拓使」の官吏(役人)になるべく、請負業を辞して同年1月に北海道へ旅立ちました。
冒頭に書かれてある、明治5年10月14日に開業したというのは誤りです。
明治5年までは旧暦だったから、1872年10月14日=明治5年9月12日です。