日本初の鉄道建設に関わった“しょこたん”のご先祖 「高輪築堤」だけじゃない その名残を追う

150年後の“しょこたん”へつながるまで

 開拓使の給料は当時の請負業の収入より大幅に低いものでした。しかし弥十郎は、「請負業は波があるから、良い時に止めて官吏になるのが良い」と家族を説得し、立場を変えて新たに託された場所を選んだのです。

 北海道に渡った平野弥十郎は函館~札幌間の「札幌新道」を建設、浦河・小樽・石狩などで様々な道路や建築物に関わり、札幌・北1条西6丁目(現在の北海道庁南側、日銀札幌支店周辺と思われる)で晩年を過ごしていたといいます。

 また四男の伊藤一隆氏は札幌農学校の1期生として、ウィリアム・スミス・クラークが離任する際に残した“boys be ambitious!“(青年よ大志を抱け)との言葉を受けた一人でもあります。のちに道庁職員として国内初の鮭・鱒の人工孵化場の創設に関わり、平野弥十郎も世を去る半年前、1889(明治22)年2月にこの孵化場を見学しました。ただ、弥十郎は翌月に北海道庁に出向いた後は、同年10月に67歳で亡くなるまで、表舞台に姿を表すことはなかったようです。

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石狩港の周辺には今でも石積みの倉庫跡が多く残る。平野は明治14年にこの周辺の道路整備を行った(宮武和多哉撮影)。

 そして伊藤一隆のひ孫にあたるのが、中川翔子さんのお母様、中川桂子さん。こうして150年の時を経て、5代後に中川翔子さんへ繋がるわけです。

 その系譜を受け継いだ中川翔子さんは、伊藤一隆の功績を讃える展示がある「千歳サケのふるさと館」や数々のゆかりの地をプライベートで訪れ、その様子を著書『ねこのあしあと』やSNSなどに残しています。

 昨年もご自身のYouTubeチャンネルで、一族が住まれていた北1条西6丁目から程近いお店でいくら丼を堪能されたばかり。平野弥十郎から続く北海道との縁は、まだまだ繋がっているようです。

【了】

【写真】「高輪築堤」ってどこ? 列車が走っていたころ

Writer: 宮武和多哉(旅行・乗り物ライター)

香川県出身。鉄道・バス・駅弁など観察対象は多岐にわたり、レンタサイクルなどの二次交通や徒歩で街をまわって交通事情を探る。路線バスで日本縦断経験あり、通算1600系統に乗車、駅弁は2000食強を実食。ご当地料理を家庭に取り入れる「再現料理人」としてテレビ番組で国民的アイドルに料理を提供したことも。著書「全国“オンリーワン”路線バスの旅」など。

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コメント

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1件のコメント

  1. 冒頭に書かれてある、明治5年10月14日に開業したというのは誤りです。
    明治5年までは旧暦だったから、1872年10月14日=明治5年9月12日です。