スペインでは「エース」続々 中国では短命 東西で真逆のイタリア戦闘機 日本軍機の撃墜記録も
スペインではエースを続々輩出
1936(昭和11)年7月に始まったスペイン市民戦争(スペイン内戦)において、イタリアの国家指導者であるムッソリーニ統帥は、反共産主義の大義の元、ドイツのヒトラー総統と共にフランコ将軍率いる反乱軍側を支援します。そして、軍用機と共に義勇パイロットを一市民として偽名でスペインに送り込み、人民戦線政府側のソ連製援助機と激しい空中戦を行うようになりました。
たとえば第16戦闘航空群「ラ・クカラチャ」(ゴキブリの意味)に配属されたCR.32型はドイツから派遣されたコンドル軍団爆撃隊の護衛任務も行い、ソ連製I-15型複葉戦闘機やI-16型単葉戦闘機を相手に数々の空中戦を行って戦果を挙げています。
のちに第2次世界大戦において、複葉戦闘機の分野で世界トップエースとなったイタリア人パイロットのマリオ・ヴィシンティーニ(総撃墜数19機)も、1938(昭和13)年5月23日にはI-16型2機を初撃破しました。なお、3か月後の8月24日には、再びI-16型を撃墜する戦果を挙げ、帰国前の9月5日にもさらに1機撃墜しています。
こうしてスペインでの戦争中に、イタリアは365機(405機説もあり)のCR.32型と多くの義勇パイロットを現地へと送り込み、15機撃墜のブルーノ・モンテニャッコや12機撃墜に加えて10機を共同撃墜したグイド・プレセルなどのイタリア人エースを生み出して、CR.32型「フレッチア」戦闘機の高性能ぶりを証明してみせました。
また、フランコ反乱軍側でも130機近くのCR.32型が使用されており、5機以上を撃墜したスペイン人エースを33名輩出しています。中でも40機撃墜に加えて共同撃墜4機、未確認撃墜13機という、第2次世界大戦前としては破格のスーパーエース、ホアキン・ガルシア・モラート・カスターノのようなスターまで誕生させたほどです。
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