「通勤地獄」を作ったのは誰か? 戦後の焼け野原からの「理想的な都市計画」が大失敗に終わるまで

終戦後を見据えた「脱・一極集中プラン」の顛末は

 しかし壮大すぎる東京の復興計画は実を結びませんでした。連合国占領軍(GHQ)から「敗戦国にふさわしくない計画だ」として不興を買ったこともあり、東京都市圏まで射程に入れた計画は、財源不足で駅前を周辺とした小規模な事業の集合体に縮小。さらに動き出しが遅れたせいで、焼け跡には既にバラックやマーケットが立ち並んでいたのです。

 終戦時の現都区部の人口は約278万人。そこからぐんぐん急増し、2年後の1947(昭和22)年に約418万人、1950(昭和25)年に約539万人となり、当初案の最大値「500万人」をあっさりと突破してしまいます。

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急増する東京および周辺3県の人口(総務省・東京都の人口統計から筆者作成)。

 1955(昭和30)年には約697万人に到達。これをふまえ、東京単独ではなく首都圏全体の開発計画を定める首都圏整備法が制定され、同法に基づき1958(昭和33)年に「首都圏基本計画」が策定されました。
 
 この計画は戦災復興計画の理念を引き継ぎ、都市機能の分散や幅10kmにおよぶ「近郊緑地帯」の設定など市街地拡大の抑制が盛り込まれました。

 しかしふたを開けてみれば、高度成長の人口増加は戦前以上のものでした。東京都心から同心円状に10km間隔で区切った区域の1955年と1970(昭和45)年の人口を比較すると、
【 0~10km】409万人→375万人(0.92倍)
【10~20km】402万人→786万人(1.96倍)
【20~30km】175万人→538万人(3.07倍)
【30~40km】166万人→575万人(3.46倍)
つまり、遠方に行くほど急激に増加したのです。戦前の都市計画が戦争になし崩しにされたのと同様に、戦後の首都圏整備計画もやはり高度成長の勢いを抑えることはできませんでした。

【画像】1960年代の通勤風景はこうだった

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