国内わずか2例「懸垂式モノレール」は「負け組」なのか? 跨座式との”独仏代理戦争”互角の戦いの歴史
日本への本格的な都市モノレール導入をめぐり、「跨座式」「懸垂式」という全く異なるタイプを採用する、ドイツとフランス、2つの規格の争いがありました。どんな結末を辿ったのでしょうか。
東京モノレールに先を越された…懸垂式モノレールの「次の一手」は
1964(昭和39)年9月、いざ期待を背負って開業した東京モノレールですが、東京オリンピックの会場輸送が終わると想定の半分以下まで利用が低迷。日立が中心となって経営再建を進めることになり、延伸構想も夢のまた夢になってしまいました。
東京モノレールで明らかになったのは、海への橋脚建設には想定以上に費用がかかり、道路上空を走らせるのが望ましいが、建設省と東京都は否定的だということ。またそもそも道路を拡幅しなければ橋脚を設置できないという問題でした。「地下鉄よりはるかに安い」と思われていた建設費は大きく上振れし、モノレールそのものに対する社会の期待が薄れていく結果となりました。
それでもサフェージュ陣営としては、一足先に都市モノレールの実用化にこぎつけたアルヴェーグ式に負けるわけにはいきません。いちおうサフェージュ側も、東京モノレールと同じ年、名古屋の東山公園に0.5kmの路線開業を実現させてはいました。とはいえ事実上の実験線であり、本格的な交通手段としての実績には欠けていたのです。
そうした中、注目されたのは「江ノ島のモノレール構想」でした。前掲『電気車の科学』によれば、この構想も元々は鈴木彌一郎が持ち込んだ江ノ島~マリンランド(新江ノ島水族館)間800mの路線が発端だといい、申請はいったん却下されます。
そのころ、鎌倉~藤沢間に京急が「日本初の自動車専用有料道路」を運営していました。ここに大船~江ノ島間をモノレールで結ぶ構想が発展。1965(昭和40)年に「湘南モノレール」として免許を申請します。ポイントとなるのが、京急の「私道」を利用することで、先述の「道路上空の使用問題」を回避した点です。無事着工し、湘南モノレール西鎌倉~大船間は1970(昭和45)年3月7日に開業を果たします。
実はこれは「大阪万博」開会のわずか1週間前のことでした。大阪万博では会場内に、アルヴェーグ式を発展させた日本跨座式による4.3kmのモノレールが出展されており、「さらに遅れをとる訳にはいかない」として突貫工事で開業させたといいます。
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