“ここはアメリカ”横浜のど真ん中になぜ? 米軍専用の港「ノース・ドック」戦争に翻弄された歴史
太平洋戦争で運命は大きく転換
関東大震災の発災から2年後、1925(大正14)年に外国貿易設備(瑞穂埠頭)と内国貿易設備(高島埠頭、山内埠頭)の整備は「大正14年直轄事業」として再開。10年後の1935(昭和10)年3月に瑞穂埠頭が完成します。
この時、東海道本線臨港線から分岐する専用線も建設され、埠頭内には外国貿易の貨物専門駅として、瑞穂駅が同年7月に設置されました。なお、途中で水路を跨ぐため、日本初の溶接鉄道橋として瑞穂橋が架けられています。
瑞穂埠頭は、開業時点で3000総トン級の船舶5ないし6隻が余裕をもって接岸できる設備が整えられており、ゆくゆくは1万6000総トン級の船4ないし5隻まで同時に荷役が可能な受け入れ能力が付与される予定でした。
ちなみに、当時の日本郵船が保有していた大型貨客船「浅間丸」が、全長178mで1万6947総トンだったので、このクラスの船が縦列で横付けできる形になります。
外国貿易設備の工事はその後も続き、1949(昭和24)年度までに完成する計画でしたが、太平洋戦争と日本の敗戦が瑞穂埠頭の運命を大きく変えることへ繋がります。
横浜市に進駐したアメリカを始めとした連合軍は、横浜税関本庁舎に総司令部を置き、戦艦「ミズーリ」で降伏文書が調印された1945(昭和20)年9月2日から、大桟橋(サウスピア)、新港(センターピア)、山内、高島、瑞穂(ノースピア)といった埠頭と港湾施設の9割を接収。その管理運営も連合軍が実施するとしました。
これにより横浜港は商港としての機能が完全に麻痺し、港を中心とした経済活動を担っていた民間企業も東京などに転出したことで、横浜市は復興が大きく遅れることになります。
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