始まりは「商売人のツケ回収」!? 鉄道の「終夜運転」歴史は意外と古かった 実は大晦日以外にも
「大晦日終夜運転」がビジネスチャンスになった時期は?
昭和に入ると急速に大晦日の終夜運転が広まります。大正中期から終夜運転を行っていた国鉄は、例えば1927(昭和2)年の大晦日は山手線、京浜東北線上野~鶴見間、赤羽線、中央線東京~中野間がそれぞれ12分間隔の終夜運転を行っていますが、これに加えて上野・両国を31日のうちに出発する「成田行き臨時列車」を設定し、乗客の囲い込みにかかります。前年に京成電気軌道(現京成電鉄)が成田まで開通しており、それに対抗する措置でした。
京成も負けじと、翌年の大晦日に全線15分間隔の終夜運転を実施します。結果的に国鉄も京成も利用者が増え、二年参りには大きな需要があることが見えてきたのです。こうして私鉄各社は自ら需要を開拓するため、大晦日の終夜運転を始めていきました。
1930年代に入ると実施路線はますます拡大し、「平時」として最後の正月を迎える1936(昭和11)年の大晦日は、東京圏のほぼ全ての私鉄で実施され、多くの初詣客でにぎわいます。しかし1941(昭和16)年に太平洋戦争が勃発すると国鉄、私鉄、市電の終夜運転は「都合により中止」することとなり、そのまま敗戦を迎えるのでした。
終戦を迎え、サンフランシスコ平和条約が調印された1951(昭和26)年末の大晦日、京成がいち早く終夜運転を復活させ、翌年には国鉄、東武、小田急、京急も再開しました。1953(昭和28)年1月1日付の読売新聞は、明治神宮に「終夜運転の国電で駆けつける参拝者の群があとからあとから続いて元日午前一時までに昨年の六倍の五万人」が訪れたと伝えています。
このように鉄道会社と寺社が生み出した終夜運転と二年参りですが、現代になると、コロナ以前から利用の減少が進み、終夜運転を縮小または中止する路線も少なくありませんでした。終夜運転を行うためには人件費を中心に、それなりの手間と金がかかります。コロナを契機として、かつて自らが産んだ文化を畳もうということなのかもしれません。
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