なぜ「日本の道路は信じがたいほどひどい」と言われちゃったのか 外国調査団が仰天したその光景
本格的な道路事業の開始
やがて大正時代になると、国内の荷車は30万台に達し、自動車の輸入も本格化します。産業の発展に伴うこうした現象は、道路整備の必要性を否応なく生じさせ、道路事業は国策となっていきます。
1920(大正9)年、道路改良のための30か年計画が立ち上がり、ここでようやく日本の近代的道路の歴史が始まりました。この計画では1949(昭和24)年の完成を目指して、国道7855km、軍事国道275km、指定府県道1570km、そして6大都市の主要街路を改良することが予定されていました。
そしてまず、東京の神宮外苑に今も残る、近代的で自動車交通に適した舗装道路が計画されます。この道路はアスファルトによる高級舗装を施した車道と、両脇には歩道を備え、場所によっては街路樹も植えられた、近代都市にふさわしいものでした。
しかし道路改良30か年計画の開始から4年目にあたる1923(大正12)年9月、関東大震災が発生し、計画は頓挫していまいます。その一方で国内の自動車保有台数は増え続け、震災6年後の1929(昭和4)年には8万台を超えました。
計画はいったん頓挫しましたが、自動車に適した道路整備は待ったなしの状況でした。このタイミングで、今度は世界大恐慌が起こったものの、これは道路事業にはかえって追い風となりました。恐慌による失業者の大量発生への対策として道路事業はうってつけだったのです。また、この道路事業による交通の発達で産業が振興し、それが恐慌脱出への道筋になる、という目論見もありました。
震災復興と恐慌脱出、失業対策を兼ねた道路事業として、新たに1932(昭和7)年、産業振興道路改良5か年計画が立てられ、さらに町村道の改良も国が助成することになります。その間にも自動車の交通量は予想を超えて増大し続け、1934(昭和9)年には20年をかけて実施する第二次道路改良計画へと移ります。この完成時には指定府県道20万4222kmのうち未改良の1万7360kmが自動車交通向きに改良されるはずでした。
これは裏を返せば、昭和初めの時点においても、主要道の半分以上が自動車交通に不適な、幅員も狭く側溝もないような「信じがたいほどひどい」ものだったということです。日本の道路の開発は、この時点ではまだまだ始まったばかりだったといえるでしょう。
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