「気球乗れるなら飛行機もいけるでしょ!」日本の航空部隊の意外な“始祖”とは?

第一次大戦勃発! 陸軍の航空隊を担ったのは…

 日露戦争後には、軍用航空機の開発が本格化し、日本も軍用化に向けて一歩を踏み出します。日本で最初に動力付き飛行機で空を飛んだのは陸軍の軍人で清水徳川家の当主でもあった徳川好敏と日野熊蔵でした。外国産の飛行機を研究し、1910年12月19日、代々木練兵場(現:代々木公園)で日本国内初飛行を成功させます。

 このときは外国製の機体による飛行でしたが、翌年の1911年5月5日には早くも、国産民間機による初飛行も成功することになります。

 そして、日本が第一次世界大戦に参戦後、1914年10月から11月に起こった青島の戦いで日本陸海軍は初めて飛行機を戦場に投入しました。

 この戦いで日本陸軍は、青島の湾内に籠るドイツ軍艦に対し、保有していたモーリス・ファルマン MF.7数機を用いての爆撃を試みます。これを行う航空部隊を担ったのは、なんと熱気球を製作運用していた工兵部隊の兵士たちでした。

 現代であれば、熱気球と航空機の飛行するメカニズムは、全く違うことが理解できますが、明治から大正にかけてのこの時代、まだ航空の専門家もおらず「気球も飛行機も空を飛ぶから」といったような理由で、熱気球を担当していた工兵部隊に白羽の矢が立ったようです。

 どう考えてもお門違いな任務ですが、彼らはそれでも航空機を研究し、爆弾を胴体の下に紐で吊るした簡素な爆撃機を作り、出陣しました。これは大した効果を上げなかったといわれていますが、日本の航空機部隊の初陣であるといえます。爆撃任務のほかにも、陸軍初の航空部隊は青島で偵察飛行を行い、敵陣配置の情報などをもたらすことで要塞化された青島の攻略に貢献しました。

 その後、1919年に所沢へ陸軍航空学校が開設、1925年にようやく航空部隊は工兵科から独立して航空科が生まれました。こうして帝国陸軍の戦闘機部隊が誕生し、第二次世界大戦では、一式戦闘機「隼」などの戦闘機を駆り、大戦序盤ではアメリカやイギリスの航空戦力と圧倒する花形部隊へと成長していったのでした。

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偵察や爆撃などの任務に世界各国で運用された初期の飛行機であるモーリス・ファルマン MF.7(パブリックドメイン)。

 ちなみに航空部隊の独立以降も、気球部隊は工兵部隊に残されました。彼らは、第二次世界大戦終盤には、コンニャクから作った糊と和紙で、丈夫な気球を作り、爆弾を搭載して偏西風に乗せてアメリカ本土を爆撃する通称「ふ号作戦」を決行。爆弾を搭載した気球は、ほとんどが太平洋に沈みましたが、数百個はアメリカ本土まで到達し、第二次世界大戦中唯一のアメリカ本土での敵の攻撃による人的被害も与えることになります。

【了】

【今ではかなり都心!】これが、日本で飛行機が初めて飛んだ場所です(写真)

Writer: 凪破真名(歴史ライター・編集)

なぎはまな。歴史は古代から近現代まで広く深く。2019年現在はフリー編集者として、某雑誌の軍事部門で編集・ライティングの日々。趣味は自衛隊の基地・駐屯地めぐりとアナログゲーム。

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