ついに始まった!?「地下鉄で空襲対策」は歴史的に異例なのか 戦争開始で「駅とトンネルに求められるもの」

地下鉄と戦争の密接な関係とは

 地下鉄と戦争の間には密接な関係があります。現在も続くロシア・ウクライナ戦争でも、ウクライナの首都キーウで地下鉄が避難施設として用いられているように、両国のような旧共産圏の地下鉄は核戦争にも対応可能なシェルターとしての役割を兼ねて建設されたと言われます。

 空襲時の地下鉄への避難は、古くは第一次世界大戦にまでさかのぼります。ドイツ帝国は1915(大正4)年1月にツェッペリン飛行船を用いた“世界初の戦略爆撃”を開始し、5月には対象をロンドンへ広げました。さらに1917(大正6)年に入って航空機を用いた空襲も開始。ロンドン市民にとって、避難の重要性は益々高まってきたのです。

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世界最古の歴史を持つロンドン地下鉄(乗りものニュース編集部撮影)。

 空から降り注ぐ爆弾に驚いた人々が、当時数少ない地下施設である地下鉄に逃げ込んだのは当然だったのでしょう。ロンドンでは既に地下深いシールドトンネルの地下鉄「チューブ」が開通しており、空襲の影響をほとんど受けなかったからです。

 同年9月24日の空襲では約10万人がチューブの構内に避難。翌25日には12万人に増え、26日、27日は空襲がなかったものの早朝から立錐の余地がないほど混み合ったといいます(1938年東京市調査)。

 第二次世界大戦でもチューブはシェルターとして活躍しました。地下鉄を管轄するロンドン旅客運輸局は当初、空襲時に地下鉄へ避難するのを禁止し、空襲下でも運行可能な唯一の交通機関として活用する方針でした。しかしやって来た空襲は第一次大戦とは比較にならないほど激しく、市民は初乗りきっぷを買って地下鉄構内に殺到し、空襲が終るまで居座る強硬策に出たため、地下駅への避難はもはや黙認されるようになりました。

 その後ロンドン当局はチューブの71駅を避難場所として正式に認定し、地上からの浸水防止対策をした上で、電気ボイラーや水道設備、水洗トイレ、診療所、喫茶所、寝台を整備。ロンドン地下鉄の夜間避難者は1940(昭和15)年10月平均で1日当たり13万8000人に達しました。常設ではなく臨時のものではありますが、今回東京都が想定するシェルターに最も近いのは、この事例でしょうか。

【画像】ロンドン空襲の時の「地下鉄構内に逃げ込んだ群衆」の様子

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