空自入間基地の「一番古い保存機」とは? “殿”と成し遂げた「日本の空の原点」その後
日本初の飛行士は徳川家の子孫だった!?
「ファルマンIII」に着目したのは日本も同様でした。1909(明治42)年7月に軍用気球研究会を設立した旧日本陸軍は、比較的早い段階からヨーロッパ各国の飛行機に注目しており、翌年の1910(明治43)年4月には機体の購入と飛行免許を取得するためにドイツとフランスにそれぞれ軍人を派遣します。
このときの前者が日野熊造大尉で、後者が徳川好敏大尉でした。なお、徳川大尉は名字が示すとおり、清水徳川家の8代目当主にあたる人物でしたが、軍人として陸軍に進みました。
この徳川大尉が選定した「ファルマンIII」複葉機は、同年11月8日に横浜港へ到着。東京中野の陸軍気球隊まで運ばれ、そこで組立てられます。当初は所沢に建設中の飛行場で初飛行する予定でしたが、工事が遅れたために代々木練兵場で行われることになりました。
技術的なトラブルや悪天候により飛行実施が順延されるなか、12月19日の夕方に徳川大尉が操縦した同機が飛行に成功、これが日本航空界の初めての足跡となります。また、日野大尉が操縦するドイツ製の「グラーデII」単葉機も飛行に成功しました。
同機は1912(大正元)年頃まで修理を重ねながら運用されていましたが、後に退役すると所沢飛行場の格納庫で保管されるようになります。そして、新設された陸軍の「所沢航空参考館」で展示機に用いられました。
しかし、太平洋戦争終結後の1945(昭和20)年にアメリカ軍が機体を接収、本土のライトパターソン空軍博物館に移されてしまいます。ただ、それによって保存されたことが功を奏し、1960(昭和35)年に「日米修好100周年記念事業」の一環として日本に返却されたことで、再び日本で展示できるようになったのです。
組み立てられた機体は、一時的に前出の入間基地へ搬入されますが、翌年2月以降は、かつて秋葉原にあった交通博物館に無償貸与され、以後長らく同地で展示されていました。ここが2006(平成18)年5月に閉館したため、機体は航空自衛隊に返還され、「修武台記念館」リニューアルに合わせて入間基地へ戻り、現在に至ります。
こうして振り返ってみると、極めて波瀾に富んだ歴史を経てきたことがわかるでしょう。そんな「アンリ・ファルマン号」ですが、前述したように事前登録制ながら一般見学も可能なので、“日本の空の原点”といえる同機を見て、当時に想いを巡らせてみるのも良いのではないでしょうか。
【了】
Writer: 吉川和篤(軍事ライター/イラストレーター)
1964年、香川県生まれ。イタリアやドイツ、日本の兵器や戦史研究を行い、軍事雑誌や模型雑誌で連載を行う。イラストも描き、自著の表紙や挿絵も製作。著書に「九七式中戦車写真集~チハから新砲塔チハまで~」「第二次大戦のイタリア軍装写真集 」など。
所沢航空発祥記念館にしばらく展示され、2年ほど前に入間基地に帰ってしまった
この期間は知らなかったのでしょうか?