「敵艦隊がいた!」バルチック艦隊を最初に発見した漁船の武勇伝のウラ側 「遅かりし1時間」怪しい美談の教訓
バルチック艦隊に迎撃されても不思議はなかったが…
宮古島を26日午前6時に出発し、同日午後10時には石垣島に到着。さらに島内の八重山電信局に着いて打電したのが27日午前0時のことでした。
「本月二十三日午前一〇時頃、本島慶良間間中央ニテ軍艦四十餘隻柱二三煙突二三船色赤二餘ハ桑色ニテ三列ノ隊列ヲナシ東北ニ進航シツヽアリシガ內一隻ハ東南ニ航行スルヲ認メシモノアリ但シ船旗ハ不明、右報告ス」
艦隊の国籍を不明としていますが、この時期にこの規模で行動している艦隊はロシアのバルチック艦隊しかありません。「宮城丸」が望遠鏡などの観測器材を持っていたとは思えませんが、隻数や進路などかなり精度は高く、艦隊から迎撃される恐れがある中で冷静に観測していたことには驚かされます。ちなみにマーラン船は中国のジャンク型帆船に似ていたので、バルチック艦隊も「宮城丸」を日本船と思わず攻撃しなかったことも幸いしました。
しかしこの報が大本営に届いたのは「信濃丸」の第一報より1時間遅れで、すでに連合艦隊は戦闘態勢に入っていました。結局、発見から4日と20時間をかけた苦労のリレー報告は生かされることはありませんでした。
関係者には当時かん口令が敷かれていたこともあり、華々しい日本海海戦の勝利の陰に隠れて、「宮城丸」の第一報は知られることもありませんでした。しかしこの話を掘り起こし有名にしたのが、沖縄県師範学校主事に着任した稲垣国三郎という人物です。稲垣はこの出来事はもっと知られるべきだと活動し、1929(昭和4)年には国語教科書に「遅かりし1時間」として掲載されるようになります。
コメント