80年前の悲劇 学童疎開船「対馬丸」はなぜ沈んだ?【後編】日米で明らかに異なる扱いの差 なんと米潜水艦は“英雄”待遇

第二次世界大戦末期の1944年8月、沖縄県出身者を多数乗せた民間船「対馬丸」が鹿児島県近海で沈没しました。同船が沈むまでの一部始終と、攻撃を加えた米潜水艦について前後編にわけて解説します。

攻撃の翌夕、ようやく救助へ

『80年前の悲劇 学童疎開船「対馬丸」はなぜ沈んだ?【前編】』では、1944年夏以降、急ピッチで進められた沖縄県の集団疎開と、それに用いられた対馬丸の概要、そして南西諸島に配置されたアメリカ潜水艦「ボーフィン」の動きについて辿りました。後編では、「ボーフィン」の攻撃を受け、沈みゆく対馬丸の対応と生存者の動き、今も保存されている「ボーフィン」の概要などを見ていきましょう。

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ハワイ真珠湾で博物館として公開されている潜水艦ボーフィン(画像:アメリカ海軍)。

 1944年8月22日22時過ぎ、攻撃を受け船団から落後した対馬丸では直ちに総員退船が出され、救命艇の降下や救命浮器の投入、便乗者(疎開児童ら)の海中への飛び込みを進めたといいます。しかし救命艇は定員を超えた人が乗ったり、降下時に対馬丸の船体に引っかかったりして転覆したものもあったとか。その他の人は救命浮器や浮遊物に掴まり、海流に乗って悪石島周辺へと漂流していったと、死亡した対馬丸船長に変わり、一等運転士の小関氏が残した「対馬丸遭難概況顛末の件(報告)」には記されています。

 片や潜水艦「ボーフィン」の報告書によると、被雷した貨物船(対馬丸)は燃料に引火したようで炎上し、大量の黒煙をあげていたと被害状況を記しています。22時21分、船影が見えなくなり、ボイラーが爆発したような大きな爆発音が3回聞こえ、炎も消えてレーダーからも反応がなくなったことから、「船は沈没した」と結論づけています。

「ボーフィン」は残るナモ103船団の船を追撃しようとしましたが、荒れてきた海面(当時台風が接近しつつあった)もあって目視およびレーダーによる捜索でも捕捉することができず、船団の航行する方向とは反対にあたるトカラ列島の横当島西方に向けて哨戒を再開したと、この日の行動を結んでいます。

 漂流する対馬丸乗船者を最初に発見したのは、大村海軍航空隊の哨戒機だったそう。機上から近海で操業していた漁船に漂流者の情報を知らせ、現場まで誘導して救助を促したことで8月23日の夕方、初めて生存者が救助されました。

 少しずつ漁船や哨戒艇に救助される生存者が増えた一方、途中で力尽きた人も多く、撃沈から6日後に遺体が奄美大島へ漂着し始めました。そんな中でも21名の生存者が保護され、現地の住民から手厚い介護を受けたといいます。

【護衛についていたはずじゃ…】対馬丸が参加した輸送船団を護っていた旧海軍の2隻(写真)

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