80年前の悲劇 学童疎開船「対馬丸」はなぜ沈んだ?【後編】日米で明らかに異なる扱いの差 なんと米潜水艦は“英雄”待遇
対馬丸生存者と潜水艦「ボーフィン」のその後
対馬丸撃沈で犠牲になったのは2020年9月4日現在、氏名が判明している人数だけでも学童疎開者784名とその訓導・世話人30名、一般疎開者625名に船員や船舶砲兵隊を含め、計1484名です。元となる乗船者の数が明確でないため、これよりもっと多い可能性もあるでしょう。一方、救助された生存者も同様に明確ではないため「約280名」という数字が、対馬丸の生存者や遺族からなる公益財団法人対馬丸記念会の調査で提示されています。
沖縄県では対馬丸の撃沈について箝口令が敷かれていたことが、遺族の手紙によってわかっています。その後の沖縄戦、戦後の混乱を経た1950年に遺族会が発足し、ようやく対馬丸の悲劇が世の中に伝えられるようになりました。記録に残る最初の慰霊祭は1950年11月25日、沖縄群島政府(当時はアメリカ占領下)の主催で合同慰霊祭として執り行われています。
沈没から53年後の1997年には、潜水調査で悪石島の北西約10km、水深880mの海底に対馬丸の船体を発見しています。遺族は船体の引き揚げを望んだものの、日本政府は技術的に困難であるため代替案として資料館の建設を決定。撃沈から60年の節目の年となる2004年8月22日、那覇市若狭にある旭ヶ丘公園の入口に、対馬丸の悲劇を伝える「対馬丸記念館」が開館しました。
旭ヶ丘公園には、対馬丸の犠牲者を祀った「小桜の塔」が建っており、氏名の判明した犠牲者が学校ごとに分けて刻まれています。この他にも沈没地点に近い悪石島や、犠牲者や生存者が漂着した奄美大島の宇検村船越(ふのし)海岸などに慰霊碑が建立されています。
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