地下鉄トンネルまで“爆弾が到達” 実は今も痕跡が 「銀座空襲」80年前に何が起きたのか
太平洋戦争で東京都心が初めて甚大な被害を受けたのが、1945(昭和20)年1月27日の「銀座空襲」でした。ちょうど80年前の今頃、破壊された地上と地下の2駅は、どのような対応に追われていたのでしょうか。
昭和20年、東京は最悪の年明けに
2025年で太平洋戦争の終戦から80年を迎えます。1945(昭和20)年に入って戦局は加速度的に悪化。8月15日までの間、日本全国の主要都市におびただしい量の爆弾が投下されました。その最たるものが「帝都」東京です。
東京が初めて空襲を受けたのは、1942(昭和17)年4月18日のことでした。日本から約1000km離れた洋上の航空母艦から発進させた陸上爆撃機による空襲、通称「ドゥリットル空襲」です。ただしこれは1回限りの奇策でした。
B29爆撃機による本格的な空襲は、サイパン陥落後の1944(昭和19)年11月24日に始まり、やがて攻撃目標は軍需工場から市街地へと広がっていきます。
12月に入ると東京では毎日のように警戒警報が発令されるようになり、散発的な空襲が行われました。同年の大晦日は23時50分に警戒警報が発令されると、元日の0時5分頃に焼夷弾による空襲が行われ、下町で800戸近くが全焼する最悪の年明けとなりました。
東京都心が甚大な被害を受けた初めての空襲が、1945年1月27日の14時頃に行われた「銀座空襲」です。それまで軍需工場の工員が多数死亡する空襲はありましたが、市街地の被害は限定的でした。
米軍がコードネーム「エンキンドル3号作戦」と称したこの空襲は、武蔵野の飛行機工場が第一目標でしたが、悪天候で目標を確認できなかったため、76機中56機のB29が第二目標の都心に投弾。焼夷弾に加え工場破壊用の通常爆弾を搭載していたため、都心の鉄筋コンクリート構造物が甚大な被害を受けました。
この日は昼頃から警戒警報が発令されていましたが、危機感が薄い都心の人々は避難しようとせず、B29の爆音が鳴り響く曇天を見上げていたといいます。空襲直前には空襲警報も発せられましたが、直後に機器の故障で警報解除のサイレンが鳴り響きます。人々が混乱する中、雲を切り裂くように爆弾が降り注ぎ、うち2発が有楽町駅を直撃しました。
爆弾は有楽町~新橋間のスラブ高架橋を突き破り、中央改札付近で爆発。線路約20mと駅構内が破壊され、避難していた約100人の乗客と駅員9人が即死しました。
改札付近にいた駅員は『東京大空襲・戦災誌』で、「火薬のにおいと、甘いような酸っぱいような妙に生ぐさい血のにおいが、1か月ほど駅をおおっていた。交通会館前のレンガの壁に、歩哨兵の、人の形そのままの血形ができていた。水をかけても落ちないので、1か月ほどしてペンキか何かで消したのを、覚えている」と生々しい証言を残しています。
この区間は運転不能となりますが、すぐに山手線と京浜東北線は新橋折り返し、東海道線と横須賀線は品川折り返しで運転を再開。有楽町駅は通過扱いとして京浜東北線は同日19時、その他3路線も20時に運転を再開しています。
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