地下鉄トンネルまで“爆弾が到達” 実は今も痕跡が 「銀座空襲」80年前に何が起きたのか
太平洋戦争で東京都心が初めて甚大な被害を受けたのが、1945(昭和20)年1月27日の「銀座空襲」でした。ちょうど80年前の今頃、破壊された地上と地下の2駅は、どのような対応に追われていたのでしょうか。
道路を貫通して地下鉄駅も破壊
もうひとつ被害を受けたのが、地下鉄銀座駅です。銀座四丁目交差点付近、鳩居堂前に落下した爆弾は道路を穿(うが)ち、トンネルに到達して起爆。現在のA2出入口が崩壊し、その直下にある浅草方面ホーム渋谷寄りのトンネル上部に約3mの大穴が空きました。さらに爆発で水道管が破壊されたことで線路が水没、浸水は夕方には隣の京橋駅まで及びました。
三越前~新橋間は1月31日まで運転を見合わせますが、応急措置が完了した2月1日から渋谷方面ホームを使用し、三越~京橋間、京橋~新橋間でピストン輸送を行い、なんとか浅草~渋谷間をつなぎました。
空襲で折損した鉄骨コンクリート桁の傷跡は、今も銀座駅に残っています。どのように復旧したのか長らく不明でしたが、2019年の銀座駅リニューアル工事で一時、パネルやモルタルが除去されたことで、その構造が明らかになりました。
痕跡の大部分はリニューアル工事の完了で再びパネルに隠れてしまいましたが、今でも渋谷寄りトンネル上部の桁を比較すると、浅草方面だけ細く、簡素な形状であることが分かります。
銀座駅のトンネルは「鉄構框(てっこうかまち)」と呼ばれる、鉄骨で組んだ左右対称の四角い枠を等間隔で並べた構造です。正常な渋谷方面のトンネルは天井から側壁にかけて鉄骨がつながっていますが、修復した浅草方面は桁の下に鉄構框がありません。そこで側壁に鉄骨を埋め込み、これで新たな桁を支えています。
銀座空襲の死者は都心で約250人、東京全域で500人以上となり、人々はようやく戦争が危機的な状況にあることを悟りました。しかしこの空襲は、その後に訪れる悲劇の前触れに過ぎなかったのです。
Writer: 枝久保達也(鉄道ライター・都市交通史研究家)
1982年、埼玉県生まれ。東京地下鉄(東京メトロ)で広報、マーケティング・リサーチ業務などを担当し、2017年に退職。鉄道ジャーナリストとして執筆活動とメディア対応を行う傍ら、都市交通史研究家として首都圏を中心とした鉄道史を研究する。著書『戦時下の地下鉄 新橋駅幻のホームと帝都高速度交通営団』(2021年 青弓社)で第47回交通図書賞歴史部門受賞。Twitter:@semakixxx
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