ホンダF1の「怖~いハナシ」創成期の不幸な事故と黄金期の黒星にまつわる「奇妙な縁」
世界最高峰の自動車レースF1の1988年シーズンは、圧倒的な強さを誇るホンダが全戦全勝を達成するかと目されていましたが、不運なトラブルによって潰えます。その原因となったのは、ホンダと奇妙な縁を持つ1人のドライバーでした。
始まりは本田宗一郎と中村良夫の対立から?
しかし、F1ブーム以前からのファンは、セナが接触事故を起こした相手のドライバーの名を知ると、別の「目に見えない何かの力」を感じて戦慄したとか。
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その男の名はジャン・ルイ・シュレッサー。彼の長いレースキャリアの中でもF1で戦ったのは、ウィリアム・ジャッドからスポット参戦したこのレースだけです。そして、彼の叔父のジョー・シュレッサーは、ちょうど20年前のフランスGPでホンダRA302をドライブし、2周を過ぎたところでコントロールを失って事故死したレーシングドライバーでした。
シュレッサーとは何者なのか、RA302の事故とはどんなものだったのかを語るには、時計の針を1960年代のホンダ第1期F1参戦まで戻さなければなりません。
1960年代、二輪メーカーとしてマン島TTレースを制したホンダは、1963年に創業者である本田宗一郎の宿願であった自動車生産へと進出。それとともに、ホンダはモータースポーツの世界最高峰、F1への参戦を発表しました。ただ、そこには元航空技術者の中村良夫が入社したことが大きく影響しています。彼は東京帝国大学(現在の東京大学)航空学科の出身で、そこを1942年9月に卒業すると、第二次世界大戦中は「富嶽」や「火龍」などといった軍用機の開発を担当した逸材です。
1958年にホンダの一員となりましたが、その際に本田宗一郎は中村良夫に対し、自動車産業への参入とF1参戦を早くも打ち明けています。
ふたりは戦前からのモータースポーツ好きという点こそ一緒だったものの、その出自は大きく異なりました。かたや町工場からホンダを一代で大企業へと成長させた叩き上げの技術者、もう一方は理論派の航空畑出身のエリート技術者です。
当然、技術へのアプローチも考え方も異なっており、本田宗一郎が天性の直感から課題に挑み、世間をアッと言わせる斬新な技術で解決を図ることを好んだのに対し、中村良夫はインテリジェンスとマネジメントを重視し、合理的かつ効率的な方法で問題解決を図るという違いがありました。
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