ホンダF1の「怖~いハナシ」創成期の不幸な事故と黄金期の黒星にまつわる「奇妙な縁」
世界最高峰の自動車レースF1の1988年シーズンは、圧倒的な強さを誇るホンダが全戦全勝を達成するかと目されていましたが、不運なトラブルによって潰えます。その原因となったのは、ホンダと奇妙な縁を持つ1人のドライバーでした。
念願のF1初優勝を果たすも暗雲が…
そのため、ふたりとも人命を最重要視する姿勢こそ変わりなかったものの、レースに対する姿勢はまったく違い、本田宗一郎にとってはレースというのは身体を張った命懸けの戦いと考えていたのに対し、中村良夫はレースというのはライバルより速ければ勝つことができるため、リスクを回避して安定した高性能を発揮するマシンを生み出すことこそが勝利への最短ルートだと考えていました。ゆえに中村良夫は、「スポーツマンシップを大事にしたい」と常々関係者に語っていたほどでした。
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まさしく、「水と油」状態の本田宗一郎と中村良夫は、ときに激しい意見の対立を見せながらも、共通の夢であるF1に参戦します。そして優勝という目標から、一致協力してマシンの開発に邁進しました。その結果、試作車RA270を経て開発されたRA271で1964年に参戦すると、続く1965年は中村が施した入念な高地向けセッティングが功を奏して最終戦のメキシコGPで初優勝を飾ります。ただし、その後の1966年と1967年のシーズンは、新たなマシンRA273の成績が振るわず、優勝を果たすことなく終わっています。
なぜRA273は好成績を残すことができなかったのでしょうか。それは、RA273が完璧主義者であった本田宗一郎の意向を汲んだマシンであったからだとか。RA273は、パワーに優れる代わりに耐久性を重視したことで重量が過大となり、レギュレーション上の最低重量を200kg以上も超過していました。このことが、戦績が振るわなかった理由と目されていますが、ゆえに中村良夫は本田宗一郎に対する不信感を募らせていったと伝えられています。
しかし、転機は1968年に訪れます。市販車の本格的開発に先立ち、レース予算が縮小された結果、イギリスに中村良夫をリーダーとするホンダ ・レーシングチームのガレージが設けられ、日本にあるホンダの研究所から独立して活動することができるようになりました。
こうして、裁量権を与えられたことで、中村良夫はようやく自身の理想とする軽量マシンの開発に着手することが可能となります。しかし、同時に日本の本田宗一郎とイギリスの中村良夫といった体で、物理的な距離が大きくなったことにより、ふたりの気持ちも徐々に離れ離れになっていったのです。
そして、このことが1968年のフランスGPにおける悲劇へとつながるのでした。次回は、その悲劇について振り返ってみようと思います。
Writer: 山崎 龍(乗り物系ライター)
「自動車やクルマを中心にした乗り物系ライター。愛車は1967年型アルファロメオ1300GTジュニア、2010年型フィアット500PINK!、モト・グッツィV11スポーツ、ヤマハ・グランドマジェスティ250、スズキGN125H、ホンダ・スーパーカブ110「天気の子」。著書は「萌えだらけの車選び」「最強! 連合艦隊オールスターズ」「『世界の銃』完全読本」ほか」に
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