「世界初の新造空母」はなぜ日本で生まれたのか “空母の実用化”を下支えした「鳳翔」の半生

1922(大正11)年、旧日本海軍は世界初となる「最初から空母として建造された」軍艦を完成させます。名前は「鳳翔」。なぜ日本が、世界でも珍しかった新造艦を率先して建造できたのでしょうか。

実戦は少なく、実験艦として日本の空母開発を下支え

「鳳翔」の竣工時の性能は、基準排水量7470トン、全長168m、全幅22m、最高速力25ノット(46.3km/h)、搭載機15機(他に補用機6機)でした。空母として船体の動揺を抑えるために、アメリカ・スペリー社式のジャイロスタビライザーを搭載するなど、これまでに例のない建造となったため、工事は試行錯誤の連続だったと伝えられています。

 1922(大正11)年12月に竣工し、翌年から旧日本海軍は艦載機での着艦試験を開始します。吉良俊一大尉を飛行長とした航空隊が事前に訓練を行っていましたが、基幹搭乗員の事故を避けたいという観点から、すでにイギリス空母「アーガス」で経験を積んでいたジョルダン大尉に賞金1万5000円を出して、着艦を依頼します(当時は中級の住宅が東京で1000~5000円という時代ですから、大変な高額です)。ジョルダン大尉の着艦は問題なく成功し、翌月には吉良大尉も着艦に成功しました。

 しかし、実験艦として最小限の艦型で建造された「鳳翔」の飛行甲板は、当時でも小さいと見なされ(長さ168.3m×幅22.7m)、飛行甲板上の島式艦橋は1924(大正13)年には撤去されました。

「鳳翔」は実験艦として、実用性に乏しかった着艦制動装置の試験に従事しました。イギリス式→フランス式→萱場式制動装置と換装を繰り返し、1933(昭和8)年に呉式着艦制動装置が装備されて、ようやく「実用的な着艦制動装置」の目途が立ったのです。まさに日本の空母の実用化を下支えした空母といえます。

「鳳翔」は1932(昭和7)年に上海事変、1937(昭和12)年に日中戦争で実戦に参加します。しかし、この時期でもすでに設備が旧式となっており、新型航空機の運用は不可能でした。のちに、「鳳翔」は飛行甲板を延長して、九六式艦上戦闘機の運用を可能とし、1942(昭和17)年のミッドウェー海戦では、艦載機が行方不明になっていた駆逐艦の「磯波」を誘導して連れ戻しています。

 その後、「鳳翔」は練習空母として、外洋航行への制限を行った上で、飛行甲板長を180.8mに延長し、艦載機訓練に従事しましたが、それでも「彗星」「天山」などの新型機の運用は不可能でした。ただ「鳳翔」の飛行甲板は、零戦などを運用していた「龍驤」の156.5m×23m、「大鷹」型の162×23.5mよりも広く、速力は「大鷹」型の21ノット(38.9km/h)を上回ります。もし、近代化改装の機会があったなら、零戦などを搭載して活躍した可能性も考えられます。

【写真】日本初であり、世界初でもある空母「鳳翔」

Writer:

ゲーム雑誌でゲームデザインをした経験を活かして、鉄道会社のキャラクター企画に携わるうちに、乗りものや歴史、ミリタリーの記事も書くようになった乗りものライター。著書『日本全国2万3997.8キロイラストルポ乗り歩き』など、イラスト多めで、一般人にもわかりやすい乗りもの本が持ち味。

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