80年前には「日本最後の空戦」も “初モノ尽くし”だった横須賀の日産工場 経営不振の影響で歴史終わるか?
2025年5月13日、経営悪化により日産は、子会社での日産車体の湘南工場とともに追浜工場も閉鎖対象として検討しているそうです。神奈川県は日産の創業の地。追浜工場も前身は歴史ある飛行場でした。
追浜工場の意外な歴史と取り巻く状況の変化
その後、アメリカ軍が進駐してくると飛行場としての機能は停止します。しかし、その広大さを活かして、戦場で損傷したジープやトラックが運びこまれ、スクラップヤードに転用されるようになります。そして、1948年には日本政府から指定を受けた富士自動車(のちの小松ゼノア。SUBARUの前身である富士重工とは別)が占領軍自動車の修理や解体、再生事業を請け負いました。

同社は乗用車事業への参入をもくろみ、1952年にクライスラーと提携を結んでプリムス車のノックダウン生産を開始しますが、大型乗用車の国産化に否定的だった当時の通商産業省(現・経済産業省)の妨害により、必要な外貨割当を受けられずに事業が頓挫。ノックダウン生産は中止を余儀なくされました。
朝鮮戦争が終わり、1950年代中頃を過ぎるとアメリカ軍の車両修理依頼が激減したため、富士自動車はやむなく人員削減を発表しますが、これに不満をもった労働者らが大規模な労働争議を起こします。その結果、追浜工場は閉鎖され、これを日産自動車が入手して現在に至ります。
追浜工場は専用埠頭を持つことから、遠隔地や海外向けの完成車については、内陸の栃木工場で生産された車体についても追浜までキャリアカーで運ばれて来て、ここから船積みされていました。しかし、2010年に佐野田沼IC~岩舟JCT間の開通により北関東自動車道と東北自動車道と接続すると、輸出港である茨城港へのアクセスが大幅に改善されました。
その結果、東京湾の奥にある追浜工場からの輸出量が大きく減り、それに伴って日産社内における追浜工場の重要性も低下しています。加えて、追浜工場自体の施設の老朽化に加え、日産が業績悪化に陥ったのですから、同工場がリストラ対象として検討されるのもやむを得ないことなのかもしれません。
しかし、地元である神奈川県、そして横須賀市などにとっては地域経済や雇用、税収などへの影響が大きいため、とうぜん反対の姿勢です。歴史ある追浜工場がどのような扱いを受けるのか、今後の動向に要注目です。
Writer: 山崎 龍(乗り物系ライター)
「自動車やクルマを中心にした乗り物系ライター。愛車は1967年型アルファロメオ1300GTジュニア、2010年型フィアット500PINK!、モト・グッツィV11スポーツ、ヤマハ・グランドマジェスティ250、スズキGN125H、ホンダ・スーパーカブ110「天気の子」。著書は「萌えだらけの車選び」「最強! 連合艦隊オールスターズ」「『世界の銃』完全読本」ほか」に
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