兵庫県のポツンと「紫電改」見てきた! 日米の機体見比べたら「かつての敵国の方が評価してんじゃん!」
太平洋戦争中に旧日本海軍が運用した戦闘機「紫電」と、改良型の「紫電改」は新明和工業の前身である川西航空機が設計、製造しました。最終的に組み立てる工場が設けられたのは、意外すぎる場所でした。
新工場には滑走路がなく、試験飛行ができない!
川西航空機は「紫電」と「紫電改」を兵庫県西宮市の鳴尾工場で製造していましたが、海軍からの増産要請に応えるために別の工場が必要となりました。そこで、グループ会社だった日本毛織の兵庫県姫路市の工場を川西航空機姫路製作所に転換し、生産に着手しました。

ところが、この工場には大きな問題がありました。現在のJR西日本播但線京口駅の近くという姫路市中心部に位置するため、試験飛行に必要な滑走路を建設する土地がなかったのです。
このため、出荷前の最終組み立てのための工場を建設することになり、白羽の矢が立ったのが現在の加西市の山村地域でした。ここではパイロットを養成するために旧日本海軍の練習航空隊「姫路海軍航空隊」が1943年10月1日に発足し、通称「鶉野(うずらの)飛行場」が整備されていました。
飛行場の隣接地に川西航空機姫路製作所鶉野工場を建設することで、試験飛行にはコンクリートで造られた長さ1200mの滑走路を活用できました。地元住民は「川西航空機の(姫路製作所の)工場から比較的近く、工場を造れるだけの土地が周辺にあり、試験飛行に必要な滑走路もあるという好立地だった」と解説します。
鶉野工場は1943年末ごろに完成し、姫路製作所で生産された「紫電」や「紫電改」の機体が運び込まれました。鶉野工場で完成した機体は鶉野飛行場での試験飛行を経て出荷されました。
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