世紀の失敗作だ!「卑猥なクルマ」「レモンをかじった顔」とまで 自動車大手が “やっちまった” 案件とは
誕生から70年近くが経過した現在でも、フォード「エドセル」の記録的な販売不振はマーケティングの失敗例として教科書に載るほどです。綿密な市場調査と多額の宣伝広告費を費やしたにも関わらず、なぜ失敗したのでしょうか。
起死回生を狙った「レモンを齧ったオールズモビル」
1927年のT型フォードの生産終了以来、業界首位の座をGM(ゼネラル・モータース)に奪われて万年2位の座に甘んじていたフォードは、戦後ヘンリーの孫であるヘンリー・フォード2世が経営権を握ると、GMからアーネスト・R・ブリーチを引き抜き、陸軍統計局で働いていたロバート・マクナマラら「神童」と呼ばれるヤングエリート集団を雇い入れたうえで社内改革を実施。GMの追撃を開始します。

そのなかで、少量多品種を生産するGMが利益を出している秘密を知ったフォードは、キャデラックからシボレーまでの5部門を展開していたGMに倣い、中級部門のマーキュリーと大衆部門のフォードの間を埋めるブランドとしてエドセルを新設。ここで、マーキュリー車やフォード車のプラットフォームやエンジンを流用した姉妹車を販売する計画を立ち上げました。
新ブランドの立ち上げに際してフォードは、数字至上主義のマクナマラによる指導のもと、綿密なマーケティングに基づいて顧客の要求を製品に反映させます。そのうえで巨費を費やして1年に渡るティーザー・キャンペーンを展開しました。なお、エドセルのスタイリングは発表まで秘密とされ、展示車をディーラーに運ぶ際にも厳重に梱包し、輸送中も警備員を雇って絶対に人目に触れさせないようにしたほどでした。
そして1957年9月4日、いよいよ発売日となりエドセルのベールがついに剥がされます。エドセルに対して期待を膨らませたアメリカの大衆は、ひと目その姿を見ようとディーラーに殺到し、発売日だけで1万人の来場者があったといいます。
しかし、期待に胸を膨らませてやってきた人々は、初めて見るエドセルの姿に失望の表情を浮かべました。デザイナーのロイ・ブラウンは、エドセルを欧州車のように遠くからでもブランドが認識できるよう、個性的なファミリーフェイスを与えたのですが、この斬新すぎたスタイリングが仇となったのです。
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