「秋葉原駅」は震災から生まれた? たった1.5年で“3層高架駅”出現!? 関東大震災が決定づけた東京の鉄道

関東大震災は、東京の市域の4割以上を焼失させ、その後の鉄道の計画にも大きな影響を遺しました。震災前後の東京の鉄道網の発展と計画の変容を探ります。

地下鉄計画を後回しにした結果…

 東京では関東大震災以降、東京南西部に相次いで開業した目黒蒲田電鉄(現在の東急目黒線、東急多摩川線)、東京横浜電鉄(東横線)、小田原急行鉄道(小田急電鉄)などの私鉄が受け皿となって郊外化が進みました。震災が郊外化を後押ししたのは間違いありませんが、厳密には震災前から中央線の沿線など一部地域の人口増加は始まっていました。

 これらの私鉄はいずれも震災前から計画が動き出していました。特に東京横浜電鉄は武蔵電気鉄道、小田原急行鉄道は東京高速鉄道という名称で1920(大正9)年に地下鉄免許を取得しており、郊外路線と地下鉄路線を一体的に運行する計画で設立された鉄道事業者でした。

 地下鉄は、路面電車で乗客を運びきれなくなった都市に建設されます。路面電車の速度では半径4~5km、1列車あたり100人程度の輸送が限界ですが、地下鉄であれば10km以上、数百人の輸送が可能です。東京地下鉄道(現在の銀座線新橋~浅草)を含め、この時代に地下鉄計画が相次いで浮上した背景には東京の拡大がありました。

 しかし同じ1920(大正9)年、大戦景気で過熱したバブル経済は崩壊し、一転して深刻な不況に陥ります。そこで莫大な費用を要する地下鉄建設は後回しにして、先行して建設した郊外部分が東横線と小田急線です。こうした路線の開通前後に関東大震災が発生したのは全くの偶然だったのです。

 震災前から動き始めていた地下鉄計画も震災の影響を大きく受けます。1920(大正9)年までに免許された7路線は、各社の出願を組み合わせた統一感を欠くものでした。地下トンネルの収容空間となる幹線道路が復興事業で整備拡充されることをふまえて再検討され、1925(大正14)年に改定されました。現在の地下鉄網はこの計画をベースに発展したものです。

【震災前後】東京都心の鉄道網計画の変化(路線図)

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