「秋葉原駅」は震災から生まれた? たった1.5年で“3層高架駅”出現!? 関東大震災が決定づけた東京の鉄道

関東大震災は、東京の市域の4割以上を焼失させ、その後の鉄道の計画にも大きな影響を遺しました。震災前後の東京の鉄道網の発展と計画の変容を探ります。

震災で人口密集地の用地買収が実現

 国有鉄道はどのように変化したのでしょうか。1920(大正9)年時点で都心では中央線(神田~吉祥寺)、山手線(上野~神田)、京浜線(東京~桜木町)の3路線で電車が運行されていました。

 山手線には貨物列車が頻繁に走行していましたが、電車の運行拡大で線路の共有が困難になったため、複々線化(山手貨物線)を決定。1918(大正7)年の品川~大崎間を皮切りに、1925(大正14)年までに田端駅まで整備を完了しました。

 郊外化の受け皿となった私鉄線の利用者のさらなる受け皿となったのが山手線です。本来であれば私鉄から地下鉄に乗り換えて(または直通して)都心に向かうのが理想でしたが、地下鉄の開通が遅れたため、山手線が新橋、東京、神田方面への輸送を一手に引き受けました。山手貨物線の着手が遅れていたら、震災後の郊外化に対応できなかったかもしれません。

 もう一つ、震災前後の大きな変化が、1925(大正14)年11月の山手線神田~上野間開業、1932(昭和7)年7月の総武線御茶ノ水~両国間開業です。前者は1920(大正9)年に着工し、1925(大正14)年3月の開業を予定していましたが、震災の影響で延期されました。この神田~上野間が開業したのは同年11月で、山手線の環状運転もこの時から始まりました。

 一方、震災後に具体化したのが総武線の御茶ノ水乗り入れです。山手線と総武線が十字に交差する構想は明治中期から存在しましたが、隅田川の架橋問題と人口密集地の用地買収がネックで進みませんでした。

 ところが震災でこれら地域の多くが焼失する事態となり、復興事業の区画整理の対象となったため、用地の買収が実現。1931(昭和6)年2月の着工からわずか1年5か月という驚異的なスピードで、山手線を乗り越す秋葉原駅の二重高架線が開通したのです。

 総武線は御茶ノ水乗り入れと同時に御茶ノ水~両国間で電車の運行を開始。1935(昭和10)年までに順次、千葉駅まで電化区間を延長し、東京圏が東部に拡大しました。帝都復興事業は震災から6年後、1929(昭和4)年10月開催の「帝都復興博覧会」を以て完了が宣言されましたが、総武線の延長はまさしく「復興後」の東京を象徴する事業だったといえるでしょう。

【震災前後】東京都心の鉄道網計画の変化(路線図)

Writer:

1982年、埼玉県生まれ。東京地下鉄(東京メトロ)で広報、マーケティング・リサーチ業務などを担当し、2017年に退職。鉄道ジャーナリストとして執筆活動とメディア対応を行う傍ら、都市交通史研究家として首都圏を中心とした鉄道史を研究する。著書『戦時下の地下鉄 新橋駅幻のホームと帝都高速度交通営団』(2021年 青弓社)で第47回交通図書賞歴史部門受賞。Twitter:@semakixxx

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