「成田新幹線計画」が形を変えて復活!? 半世紀眠り続けた“長ーい夢の跡”を活用 京成複々線化の歴史的意義
京成電鉄が、成田スカイアクセス線新鎌ヶ谷~印旛日本医大間の複々線化を検討すると発表しました。これにより「スカイライナー」などの所要時間短縮が見込まれますが、そもそも計画地には、成田新幹線の計画が深く関わっていました。
「成田新幹線」の用地を活用
京成電鉄は2026年2月13日、成田空港アクセスのさらなる強化を目指して、成田スカイアクセス線新鎌ヶ谷~印旛日本医大間の複々線化を検討すると発表しました。増設する線路はスカイライナーと2028年度に運行開始予定の新型有料特急が、最高速度160km/hで走る「急行線」とする計画です。
現状、スカイライナーは日暮里~空港第2ビル間を最速36分で結んでおり、新型有料特急は押上~第2ビル間を「30分台前半」で結ぶ予定ですが、将来、複々線化が完了すれば日暮里から「30分台前半」、押上から「20分台後半」に短縮を見込みます。
このように複々線化は将来の話になりますが、現地の線路用地に着目すると、話は半世紀以上前の1970年代に遡ります。
都心から約70kmの成田空港は1978(昭和53)年の開港以来、アクセスに難のある「陸の孤島」というイメージが付いて回りました。今でこそ韓国の仁川空港や中国の北京大興国際空港など50km圏の空港は珍しくありませんが、米ニューヨークのJ.F.ケネディ空港、英ロンドンのヒースロー空港、仏パリのシャルル・ド・ゴール空港など、1970年代当時の欧米主要空港はいずれも30km前後の距離にありました。
そのような地理的ハンデを抱える成田空港アクセスの切り札が「成田新幹線」でした。ところが、振動、騒音公害、地域分断の懸念から反対運動が起こり、着工後も事業は停滞。1976(昭和51)年の開業予定は延期し続け、ついに断念に追い込まれます。現在に至る成田アクセスの取り組みは、新幹線計画の失敗から始まりました。
話は1977(昭和52)年、運輸大臣の田村元が成田新幹線に代わるアクセス路線を提案したことに始まります。それは東京~越中島間、印旛松虫(現・印旛日本医大)~成田空港間は成田新幹線ルートを継承し、越中島~押上間は地下鉄8号線(建設中の有楽町線延伸部に相当する区間)、押上~高砂~小室~印旛松虫間は京成・北総鉄道・住宅開発公団の既存計画を活用し、東京駅と空港を結ぼうというものでした。
1978年に関係9機関による「成田新高速鉄道協議会」が発足し、具体化に向けた検討が始まりますが、8号線の軌間が異なるなど各事業者の利害が対立して結論は出ず、3回の会合で中断してしまいます。そこで運輸省は1981(昭和56)年に、都市計画や土木工学などの専門家で構成する新たな調査委員会を設置し、国鉄の「A案」と京成の「B案」を中心に検討しました。





成田新幹線はリニアに変えて実現するべき
成田空港〜東京〜品川〜羽田空港にすれば空気輸送の成田エクスプレスの代わりになる
成田と羽田間はリニア新幹線とすべきだ。