「世界で3番目に多く船を持っていた国ニッポン」はこうして壊滅した――海に消えた約6万人の“民間船員” 81年目の鎮魂
今年も「戦没・殉職船員追悼式」がしめやかに開かれました。太平洋戦争に駆り出され壊滅した歴史をもつ日本の商船隊。その“教訓”は今も身近にあります。
社運を賭けて掴んだ"栄光の船”も海の藻屑に
池田氏が会長を務めていた商船三井も、その前身である大阪商船と三井船舶が第二次世界大戦で大きな犠牲を払いました。大阪商船は219隻約99万総トン、三井船舶は79隻約49万総トンが失われ、両社で約6000人の海上従業員が戦死しました。
その中には、戦前の日本における高速貨物船の先駆けとなった大阪商船の「畿内丸」(8365総トン)も含まれます。
1914年8月のパナマ運河開通により、日本と北米東岸ニューヨークを結ぶ新航路が開拓されました。当時、日本の主力輸出品であった生糸は高運賃貨物であり、この航路にはイギリスやアメリカが14ノットの速力を出せる高速貨物船を就航させていました。一方、日本船社の貨物船は10ノット程度で、時間短縮のためロサンゼルスで鉄道に積み替える手間がかかっていました。
こうした状況下で、大阪商船は最新鋭の高速貨物船によるニューヨーク急航サービスを計画。社運を賭けて6隻を一気に発注しました。その1番船として1930年6月に三菱造船長崎造船所で竣工したのが「畿内丸」です。
同船は大型ディーゼルエンジンを搭載し、18.4ノットの速力を実現。船内には生糸を積むシルクルームや冷蔵貨物室などを備え、強力なデリック(クレーンの一種)で荷役能力も向上させました。これにより、横浜―ロサンゼルス間は23日から11日6時間へ、横浜―ニューヨーク間は35日から25日17時間半へと大幅に短縮され、生糸輸送のシェア奪還の立役者となりました。
しかし、ニューヨークライナーとしての華々しい日々は長く続きませんでした。
日中戦争の激化やフランス領インドシナへの進駐、日独伊三国同盟の締結などで日米関係が緊迫する中、1941年3月の神戸発ニューヨーク行きを最後に運航を停止。同年9月には海軍に運送船として徴用され、太平洋戦争の開戦を迎えます。
そして1943年5月10日、「畿内丸」は船団を組んでサイパン島東方200海里を航行中、潜水艦「プランジャー」の雷撃により沈没しました。準同型船を含め8隻建造された栄光の畿内丸級貨物船は次々と沈み、最後の1隻「北海丸」も終戦後の1945年11月12日、ジャワ島スラバヤで機関部の点検中にガスへ引火・爆発し、失われました。




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