「駅弁は列車の窓から買って!」の呼び掛けなぜ? “生存競争の的”にも“非日常のご馳走”にもなった駅弁140年史
駅弁は日本特有の鉄道文化といわれています。その起源は1885年に宇都宮駅で売られた握り飯が定説ですが、諸説あり、鉄道の発展とともに独自の文化を築いてきました。
二度の「黄金時代」
1906(明治36)年に鉄道国有法が施行されると、国有鉄道は私鉄駅で販売されていた駅弁の取り扱いを定める「停車場構内物品販売営業人従業心得」を制定し、弁当の種類、等級、金額、掛け紙に記載すべき事項を統一しました。特筆すべきは、掛け紙に「駅付近の名所または旅客案内」を記載するよう定めた点です。この瞬間、駅弁文化は国鉄公認になったといえるでしょう。
ある映画監督は1923(大正12)年のエッセイで、「駅弁とはその土地の気分を味わうものだ」として、同じような食材を盛り付けるのではなく、伝統料理や特産品など地方を代表するものが入らなければならないという「汽車弁当観」を記しました。
そんな思いに応えた料理人の一人が、札幌駅で駅弁を販売していた比護与三吉です。比護は当初、弁当、寿司、パンなど一般的なメニューを揃えていましたが、ありきたりな弁当の反応は良くありません。そこでサケの切り身など地元の食材を活かした弁当を開発したところ、一転して評判を呼びました。ご飯とおかずを別の箱に詰める「二重折り箱」は比護の考案とされています。
こうして大正から昭和初期にかけて黄金時代を迎えた駅弁文化は、一転して戦争という受難の時代を迎えます。1941(昭和16)年に米は配給制となり、やがて米はサツマイモに置き換わります。終戦間近には「旅行者外食券」がなければ駅弁を買えなくなりますが、この頃には駅弁は姿を消していました。
戦時中の駅弁事情を示すのが、国鉄が1943(昭和18)年5月に発表した「駅弁は列車の窓口から」とのお触れです。乗客は列車が駅に停車すると、駅弁を求めてホーム上の売り子に殺到するようになり、発車の遅れや傷害事故を招きました。そこで駅弁の販売は列車の窓越しに限定し、乗客はホームに降りないよう求めたのです。かつて旅の楽しみだった駅弁は、生存をかけて奪い合うものになってしまいました。
終戦後も食糧難は続き、冬の時代はしばらく続きますが、1950年代になって白米弁当が自由化されると駅弁ブームは再燃し、1953(昭和28)年に大阪高島屋が日本初の「駅弁大会」を開催しました。
高度成長とともに人々はビジネスに旅行に、戦前以上に広く移動するようになります。明治・大正以来の定番駅弁に加え、「元祖かに寿し」「シウマイ弁当」「峠の釜めし」「チキン弁当」といった駅弁史に残る商品が登場し、駅弁は二度目の黄金時代を迎えました。駅弁はまさに社会を映す鏡だといえるでしょう。
Writer: 枝久保達也(鉄道ライター・都市交通史研究家)
1982年、埼玉県生まれ。東京地下鉄(東京メトロ)で広報、マーケティング・リサーチ業務などを担当し、2017年に退職。鉄道ジャーナリストとして執筆活動とメディア対応を行う傍ら、都市交通史研究家として首都圏を中心とした鉄道史を研究する。著書『戦時下の地下鉄 新橋駅幻のホームと帝都高速度交通営団』(2021年 青弓社)で第47回交通図書賞歴史部門受賞。Twitter:@semakixxx




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