「西武野田線」が実現していたら…? “大宮の壁”突破構想はなぜ消えたのか 幻に消えた「大環状線」計画
東武野田線が「西武野田線」になっていたかもしれない世界線があったかもしれません。もし実現していれば、西武と東武の勢力図は現在と大きく異なっていた可能性があります。
なぜ計画は「幻」に終わったのか
西武大宮線は東京市電と同じ軌間1372mm、直流600Vの軌道なのに対し、大宮粕壁線は軌間1067mm、直流1200Vの鉄道なので直通運転を想定していたわけではありませんが、実現していれば国鉄川越線にあたる路線を再整備していたかもしれません。
しかし計画はすぐに覆ってしまいます。免許状は1924(大正13)年3月30日までに施行認可申請を行うよう期限を定めていましたが、同年1月29日に免許線の変更を出願すると、施行認可申請期限の1年延長を申請しました。
免許線の変更は根本的なものでした。大宮駅では大規模な改良工事が予定されており、これに対応した連絡設備は「出願当時の予算にては到底完成の見込み無し」のみならず「莫大なる費用を要し収支の均衡を得ざること明らか」でした。
そこで東北本線との連絡駅を浦和に変更して西武大宮線を浦和まで南下し、大宮粕壁線は起点を浦和に変更。浦和駅東口から岩槻付近まで直線状につなぐ変更出願でしたが、1年以上にわたり許可は下りませんでした。
1924年当時、西武の営業線は川越線(国分寺~川越間)、大宮線(川越~大宮間)、新宿線(新宿~荻窪間)の3路線でした。新宿線とは現在の丸ノ内線と同じルートを走っていた路面電車です(都電杉並線として1963年廃止)。
いずれも前身の事業者から継承した路線であり、西武となって以降は、一つも新路線は開業していませんでした。鉄道省は、免許状を積み上げるばかりで開業しない西武の状況に不信感を抱いていたようで、今後の方針や建設順序の説明を求めた文書も残っています。
計画が迷走する大宮粕壁線にも厳しい目が向けられることになり、1925(大正14)年3月に申請した再度の施行認可申請期限延長願いは却下されます。そして「近き将来に成業の見込なきものと認めらるる」との理由から免許は取り消しとなりました。
もし「西武野田線」が実現していたら、西武と東武の境界線は大宮から移動していたでしょうか。その影響ははるかに大きくなるかもしれません。総武鉄道と西武が直通運転を経て合併した場合、西武野田線は東武、京成まで食い込む「刃」となります。この状態で旧西武鉄道と武蔵野鉄道が合併し、東京北西部に巨大勢力が誕生するのは、東武としてはおもしろい話ではありません。
実は昭和初期の東武鉄道社長・根津嘉一郎は1930年代後半、旧西武鉄道の大株主かつ取締役を務めていました。また、武蔵野鉄道の経営危機にあたっては経営権の掌握に動いたことがあります。最終的に西武グループ創始者の堤康次郎に譲りますが、ここで退かずに両社を東武鉄道に吸収した、なんて世界線もあり得たかもしれません。
Writer: 枝久保達也(鉄道ライター・都市交通史研究家)
1982年、埼玉県生まれ。東京地下鉄(東京メトロ)で広報、マーケティング・リサーチ業務などを担当し、2017年に退職。鉄道ジャーナリストとして執筆活動とメディア対応を行う傍ら、都市交通史研究家として首都圏を中心とした鉄道史を研究する。著書『戦時下の地下鉄 新橋駅幻のホームと帝都高速度交通営団』(2021年 青弓社)で第47回交通図書賞歴史部門受賞。Twitter:@semakixxx





コメント