「銀座唯一の踏切」が物語る築地の歴史 特急貨物列車が行き交った東京市場線
ブルートレイン並みに速かった鮮魚特急貨物列車
築地市場は、元々鉄道による入荷を前提とした構造でした。貨物列車から降ろされた水産物と青果物は、ホームに隣接した仲卸売場で競りにかけられ、買い手がつくと中央の買荷保管所からトラックで小売店へ出荷されました。入荷から出荷まで最短距離で行える、よく考えられた構造でした。
しかし、昭和30年代にまず青果物の入荷がトラック輸送に変わり、水産物も次第に鉄道からトラックへ移行していきます。東京市場線に入線する貨車は、1960(昭和35)年には1日150両を数えていましたが、1965(昭和40)年には約100両、1970(昭和45)年には70両程度と減少していきました。
そこで、国鉄が投入したのが、鮮魚特急貨物列車です。トラック輸送との差別化を図るべく、国鉄は最高100km/hでの走行が可能な24トン積みの高速冷蔵貨車、レサ10000形を開発。1966(昭和41)年10月には、鮮魚特急貨物列車のひとつ「とびうお」の運行が始まりました。
長崎駅を22時に発車した「とびうお」は、夜のうちに唐津、博多などで鮮魚を積み込み、翌朝7時過ぎに最大20両編成で下関(幡生)を発車。山陽本線・東海道本線をブルートレイン並みのスピードで駆け抜け、3日目の深夜1時に東京市場駅に滑り込みました。長崎~東京市場間の所要時間は、51時間から27時間とほぼ半分に短縮。下関(幡生)~東京市場間はトラックの24時間に対し18時間で結び、水揚げの翌々日には市場に出せるようになりました。
「とびうお」をはじめ、東京市場線を通る貨物列車には、スピードだけでなく正確性も求められました。築地市場の競りは、毎朝5時台に始まります。特に鮮魚は、絶対にこの競りに間に合わせなくてはなりません。そのため、遅れが発生した時には、旅客列車よりも優先して運行されることもありました。鮮魚特急貨物列車は、ブルートレインなどとともに、東海道・山陽本線の重要な“走者”だったのです。
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